日本軍による住民虐殺
北部においても日本軍による住民虐殺はあちこちで起こった。
大宜味村では、米軍に捕まった元巡査が山に逃げてきて日本が負けていると話したところ、スパイとして殺された(大宜味・83-84頁)。
読谷から避難してきていた避難民が下山していたが(下山とは米軍支配下に入ることを意味する)スパイとして4、5人が「手首」をしばられてめった斬りにされ、一面に血が飛び散り、目を疑う地獄の惨状であったという(国頭村『くんじゃん』366頁)。
米軍に捕まって田井等収容所(現在の名護市)に入っていたが自分の集落に戻ろうとした住民4人が日本軍によって斬殺された(同前・365頁)。
米軍に保護されて自分の家に戻っていた家族の家に日本兵が手榴弾を投げ込み、女性が殺されたので、ほかの住民たちは米軍と相談して別の収容所に移動したこともあった(同前・366頁)。
一度米軍に捕まった者はスパイと見なされ殺されたのであり、むしろ米軍が住民を日本兵から保護しようとした。
また看護婦ふたりに「アメリカが来たら手をあげなさいよ、そしたら助かるからね」と話した人が日本兵に殺された(名護市『語り継ぐ戦争』3・58頁)。
ハワイ帰りの兄弟が、一度米軍に収容され、山に隠れていた親戚に下りるように方言で説得したが、それを聞いていた防衛隊員(地元民)が将校に密告し、ふたりとも虐殺されたこともあった(同前・70頁)。軍と県が、住民同士を監視させ密告させていた結果だった。
北部における日本軍による大規模な住民虐殺事件として、大宜味村渡野喜屋の事件がある。
5月12日深夜、米軍に保護された女性や子どもたち数10人が日本兵によって浜辺に集められ手榴弾が投げ込まれて35人が殺され15人が負傷し、ほかに男たち4、5人は山に連れて行かれ刺殺されるなど惨殺される事件が起きている。
この虐殺をおこなったのは国頭支隊通信隊(隊長東郷少尉)だった(旧県史10・569-575頁、県史6・507-510頁、森杉多『空白の沖縄戦記』94-103頁、国頭での日本軍による住民スパイ視については、三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』に多くの体験者の証言が収録されている)。
民間人を虐殺しただけでなく、日本兵は住民を銃剣で脅してイモなど食糧を奪ったし、あるいはこれから斬り込みに行くと言って食糧を出させた(大宜味・256-257頁)。
米軍政府の報告書(1945年5月分)には、「米軍が彼らに危害を加えず食糧を与えるのだと分ると住民は従順で協力的になり、他の民間人に対して隠れ家から出てくるよう熱心に働きかけるようになった」「この協力関係は山中に留まる日本兵にとって極めて忌々しき事態であり、彼らは民間人に対して凄惨な虐殺を働いた」と記し、民間人を(日本軍から)避難させたが、日本兵からの復讐を恐れて山中に戻ってしまう人々がいるとも報告されている(名護3-3・91頁)。