34歳でウクライナの大学に入学

ウクライナにつながる萌芽は、高校3年生の時に訪れた。ラグビー部だった中村さんは、部活のメンバーとともにジムへ通い、そこでパワーリフティングという競技にのめり込む。

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キーウに住む今も屋外ジムに通い地元民と交流している

高校卒業後はフィットネスクラブのトレーナーなどをやり、23歳の時にパワーリフティングの世界ジュニア(23歳以下)選手権で4位に入賞。その鍛え上げた体躯を活かし、20代半ばに1年暮らしたオーストラリアでは、ナイトクラブでセキュリティーを努めた。

いわゆる「バウンサー」(用心棒)だ。帰国後は六本木や渋谷のクラブで同じ仕事を約6年続け、関東連合やチーマーたちに目を光らせていた。2000年に開かれた、パワーリフティングのアジア選手権では2位まで上り詰めた。

転機は30代半ば。ロシアのシベリア地方イルクーツクで開かれた、パワーリフティングの日露親善試合に参加した時のこと。終了後、ロシアの選手団とキャンプやスポーツなどを通じて1週間ほど交流した。中村さんが振り返る。

「映画の影響からか、ロシア人は無表情でニコリともしない、というイメージを抱いていたのですが、その交流を通じて覆されました。スラブ人は仲良くなると、ラテンに近い明るいノリになるんです。その時は通訳を介してしか話ができませんでしたが、次会う時は彼らの言葉ができたらもっと楽しいだろうなと思いました」

日本に帰国後、都内の大学で開かれた公開講座に参加し、ロシア語の勉強に目覚める。さらに磨きをかけようと海外留学を決めた。

「最初はロシア行きを考えていました。ですが、ウクライナの方が民主的で、日本から見て隣国のロシアとは北方領土問題も抱えている。それにウクライナだったら、彼らの言語も習得できるのではないかと思いまして」

留学先はキーウ言語大学。その時すでに34歳だった。

取材・文・撮影/水谷竹秀

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キーウ近郊に廃棄されたロシア軍の戦車