「時間が経つごとに貯金がどんどん減っていく…」
震災当時は火災で焼け野原になった「朝市通り」にも足を踏み入れた。このあたりは、地震発生当時と変わらず何ともいえない“匂い”がする。焼けて鉄骨が剥き出しになった建物は今も放置されているが、一部の瓦礫は撤去されていた。
さらに焼失した建物の前には「猫の置物」「湯呑み」「茶碗」などの陶器類がズラリと並べられていた。気になって、付近で撤去作業する地元住民に聞いてみると「震災後、警察や消防隊員の方が不明者を捜索しているときに割れていなかった陶器類を保護し、家の前に並べていったんだ」と話していた。
瓦礫と瓦礫の間には細い道が出来ていて、被災者が独自に作った“通路”が幾つもあった。スコップで撤去作業をしていた、朝市通りで酒屋を営んでいた橋本秀明さん(63)に話を聞いた。
「火災で270坪の敷地に建てた自宅兼店舗は全て失いました。3月3日に無事、仮設住宅に入ることができたことが最近一番よかったことかな。仮設には一応トイレもお風呂もある。ただ、当たり前ですけど電気、水道、食費も自腹です。
避難所におった場合は、お風呂はどっか入りに行ったりトイレはトイレの専用車があった。食べる物に関しても救援物資をいただけてたので。今はご覧のとおり店を失って無職、1円も稼げない。時間が経つごとに貯金がどんどん減っていく…」
右胸に「医師」「看護師」と書かれたベストを着た4人グループに出会った。4人は群馬県から輪島に医療支援に来た医師と看護師だという。
「被災地を生で見て言葉を失いました。今、医療現場は『緊急医療の必要な状態の次の段階』にきています。先ほども、介護施設などへ行って『床擦れ』の状態を診たり、避難者の健康チェックなどもしてきました。まだまだ医療従事者は必要です」
医師は今回の地震で「一番よくないのは風化することだと思う」と話していた。確かに能登の復旧はまったくといっていいほど追い付いていない。わずか4カ月前のことなのに、日々のニュースでかき消されるなか、被災地はこの日も多くの人が踏ん張っていた。
取材・文・撮影/幸多潤平
集英社オンラインニュース班