実家で親に“パラサイト”していた50代男性が「やりがいがある」
今回の「TEAM JAPAN」の参加者はすでに延べ40人を超え、美容師やメイクアップアーティスト、大工やデザイナーなど職業も性別も多士済々、かつては玩具の修理士だった74歳の男性もいたという。
その中で、1月8日からボランティアに加わった「カズト」こと佐々木一人(32)さんは、知人の農業を手伝いながら、東京都世田谷区にある祖父の自宅でニワトリの世話をしながら暮らすという自由気ままな生活を送っていた。
「正月に埼玉県川越市の実家に帰省していたときにニュースで能登震災を知って、自分が呼ばれているような気がしたんです。テレビの前で『これは行かなきゃ!』という思いに駆られて、SNSで同じ思いを持った友人に『オレもボランティア行かせてくれ!』と連絡をとりました。
その友人と車に同乗して被災地まで駆けつけ、8日に『TEAM JAPAN』に参加しました。私は大学卒業後は職を転々として、地元の工場を半年で辞めてからは、携帯ショップで販売員として6年ほど働いていたのですが、29歳になるタイミングで『オレの人生このままでいいのか?』とフリーターになり、箱根のレストランでウェイターをしていました。
しかし、昨年11月末にそこも辞めて、知人の農業を手伝いながら、おじいちゃんの家でニワトリの世話をしながら暮らしていたんです」
ボランティア活動は初めての経験だという。
「避難所への支援物資の運搬や炊き出しの際も、できるだけ被災者の方たちとコミュニケーションを取ってニーズを汲み取ろうと意識しています。また、いろいろなボランティアから刺激をもらってきました。長野県の小学生3人組は近所でシフォンケーキを売って、そのお金を『被災地支援のために』と届けに来てくれました。
沖縄の中学生たちも『自分たちができることはなにか?』という思いで飛行機と電車を乗り継いで、メッセージ入りのカイロを避難所に配ってくれました。そうした思いも引き継ぎ、これからも被災者の方たちをサポートしていきたいと思ってます」
高知県から駆けつけたヤマちゃん(51)も、かつては職を転々としていたがコロナ以降は仕事にも就かず、実家で親に「パラサイト」していた、いわゆる“こども部屋おじさん”だ。
「若いときは建設業や、いろいろな仕事をやっていました。バイクが好きで各地を巡っては短期バイトで食いつなぐ自由な暮らしをしていて。最後は北海道のテーマパークで監視員をしていました。
でもコロナ以降は働かず親に養ってもらっていた状態で、元日も実家でゴロゴロしながら過ごしていたんですが、能登地震のニュースを見て俺も力になりたいって思ったんです。それで1月中旬に高知県から高速バスと電車を乗り継いで金沢駅まで来て、その日は駅の近くにあるベンチで1泊しました」
ヤマちゃんは道を尋ねられたボランティア志願のオーストラリア人男性と仲よくなり、ともに輪島を目指すことになった。
「車を使うことは、いろいろな支援車両が向かう邪魔にもなるという思いもあったので歩いて行くつもりでしたが、最終的に駅で知りあったオーストラリア人のアイデアに便乗し、近くの店でもらってきた段ボールの切れ端に『門前輪島』と書いてヒッチハイクを始めました。
それで知り合ったのが『カズト』で、それからここでボランティアをやっています。誰かにうれしいと言ってもらえるのは、すごくやりがいがあります」