女子高生が独自の世界観で流行を作り続けた

こうした過程で“女子高生”も形成されていくのだが、彼女たちに芽生えたこととは一体何だったのか? 

1980年代後半より都市部の高校生特有のネットワークに着目してティーンマーケティングを手掛ける株式会社SHIP代表・松並卓郎氏は指摘する。

「高校生活3年間は期間限定のプレミアのようなものです。“遊べる環境”になればなるほどその志向が強い。しかも彼女たちにはクチコミという魔法がありました。学校のクラスメイトや先輩後輩、都心や地元の友達といったように1日で接触して会話する人数がとにかく多い。いろんな学校に友達がいるような子の情報は特に影響力を持っていましたね。今のソーシャルメディアのように簡単に情報拡散できないぶん、広まる情報にはリアリティがあり、人づての温かさもありました」

さらに彼女たちにはマイナーなモノやカルチャーをメジャー側に取り込んでいくようなボーダーレス感覚と、既存のものを自分たち好みに変えていくというDJのような優れたリミックス感覚もあった。

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世の中に知れ渡ることになった都心の“女子高生”は次々と独自の世界観で流行を作っていく。

「パラギャル」と名付けられた女の子だけの最初のファッションを発信したり、足元の基準をソニープラザで購入したルーズソックスに変えたり(これを受けて靴下どめのソックタッチも生産を再開)、放課後の渋谷を歩くために制服の着こなしにいそしむことが当たり前になった。

そしてビジネスマン向けツールだったポケベルや名刺、カラオケボックスや使い切りカメラも自分たちのコミュニケーションツールにした。

TVドラマの『高校教師』が話題になった。

ちょっと派手な子や日焼けサロンに行ったりクラブで遊んでるような子たちが「コギャル」と呼ばれ始めた。みんな「超○○」「ウチら」とか、あるいは「なくない?」のような語尾を上げる言葉遣いをしていた(1994年の小沢健二とスチャダラパーの『今夜はブギーバック』やEAST END×YURIの『DA.YO.NE』にも“女子高生”用語が登場)。