高2で知ってしまった映画の深み
と、ここまで書いて、全く同じ年に製作された同じアメリカの同じコロムビア映画を思い出さざるを得ません。正式タイトルは長すぎるので省略しますが、スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』(1964)※です。ほぼ同じシチュエーションだけど、『未知への飛行』はシリアスなポリティカル・フィクション・ドラマで、『博士の異常な愛情』はブラックコメディなのです。冷戦下での些細なミスやトラブルが、命令を遵守すべきシステムの呪縛によって最悪の結末を迎えるという、あの時代に空想できる悪夢が見る角度によってこうも違う映画になるのか?という、映画という表現の奥深さを垣間見られる対比。
※『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(原題:Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)
実は、後年発売された『博士の異常な愛情』のBlu-rayの特典映像によれば、当初は密室を舞台にしたシリアスな作品を想定していたが、脚本を推敲していくうちにおそらくゲシュタルト崩壊を起こしたのでしょう、これをクソ真面目にやっても意味がないから思いっきり滑稽に描いて、この人類最大の悲劇を喜劇にしちゃえ!という大方針転換に至ったようなのです。そんなわけで、さすがにそれはやりすぎだと本編からカットされたクライマックスでは、地下最高作戦室で繰り広げられるアメリカ政府首脳部によるパイ投げ合戦という、風刺を超えた悪ふざけに至るのです。
一方で『未知~』においては、とてつもないスケールの物語のほとんどを、ホットラインの置かれた大統領執務室と会議室と爆撃機のコクピットという限定された密室の中だけで描ききる手腕は、シドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』や後年『狼たちの午後』(1975)での緊張感あふれる演出と同軸といえるでしょう。そして、あくまでも真摯に、その悪夢のような事態に向き合った結果、合衆国大統領は想像を絶する選択をするのです。
この一点は、競合する類似主題の映画とまったく違う映画作家のスタンスを感じるわけです。高校2年でこの結末を映画館で知ってしまうと、映画でここまで人間の葛藤を描けるのか、もうどうすることもできない気分に打ちのめされて、正しさとは一体なんなのか、そんな気持ちを抱えて池袋の街をさまようことになるのです。
そんな素晴らしい映画を見出し、独自に買い付け、配給していた水野晴郎さんの慧眼に対して、晩年の『シベリア超特急』を嘲り笑う世の風潮はどうしても同調できなかったのですが、それは21世紀に入ってからの話です。
文/樋口真嗣
『未知への飛行』(1964)Fale Safe 上映時間:1時間52分 アメリカ
監督:シドニー・ルメット
出演:ヘンリー・フォンダ、ウォルター・マッソー、フリッツ・ウィーヴァー他©Mary Evans/amanaimages
冷戦時代、コンピューターの誤作動などにより、アメリカ空軍爆撃機にモスクワ核攻撃の指令が下ってしまう。フェイル・セイフ(原題。ミスに備えて設けられる安全装置・仕組みのこと)地点を越える飛ぶ爆撃機、止めようと必死で策をこらすアメリカ政府。緊迫の事態の行方は…。
1964年の製作だが、日本で初公開されたのは1982年。