廃墟のような日本映画界に潜り込んで

映画の仕事を始めてもうそろそろ40年です。

何が凄いかって40年間ダマしダマしですがこんな使えない私がこの世界で生き抜いてきたこと、それよりも日本の映画産業が40年間無事に残ってきたことです。

本当にどん底だったなあ、とあの頃を思い返します。1950年代から1960年代にかけての黄金時代は体験したことはないけど、1970年を境に急坂を転がり落ちるように斜陽化していった日本映画界。超買い手市場で映画会社に入れるのは高学歴のエリートばかりだったのが、各社新規採用を削減し、とうとう見送るようになり、入社しても配属先は映画とは縁もゆかりもない着実な実業的な部署で、唯一の演出担当社員を大卒で採用していた奇特な会社は、ロマンポルノで糊口を凌いでいた“にっかつ”——かつては漢字の日活、最近も漢字の日活——だけでした。

だから、人材を選ぶなんて高い志も経済的余裕もない中ゆえに高校出たてのどこの馬の骨ともわからぬチンピラ風情だとしても、映画の現場に入れたのかもしれません。仮に私が門戸を叩くタイミングが映画の黄金時代であったなら、こんな形で映画界に残ることはおろか、入ることさえままならなかったでしょう。

物心ついて映画作りに興味を抱いたときには、それまで繁栄を謳歌していた映画界は廃墟のような様相だったのです。そんな時だからできたのかもしれないのが異業種からの映画制作への介入でした。

テレビ局、出版社、レコード会社といった映画の近隣産業だけでなく、広告、不動産、商社、果ては大手電化製品メーカーが金にあかせて日本を飛び越えてハリウッドの映画会社を買収しちゃいます。さすがにハリウッド買収ではなんのご利益もなかったと思うのですが、この異業種介入によってどん底の日本映画界にはカンフル剤が注入されました。

その先鞭を切ったのは、大手3社に今ひとつ水をあけられ気味だった出版社の角川書店。自社が抱える作家の一通り売り切ってしまった代表作を自社出資で映画化して、原作のみならず作家の過去作さえもまるで新作であるかのようなパッケージングをして店頭を埋め尽くし、映画も小説も大ヒットという新たなビジネスモデルを構築したのです。 

樋口真嗣を映画の道に進ませたシン・原点。それは「すごいものを作る機会がなぜ失われたのか?」という疑問だった!【『だいじょうぶマイ・フレンド』】_1
プロデューサー、監督として一世を風靡した角川春樹氏も80代に(右)。2020年には最後の作品として『みをつくし料理帖』を監督、東京・神田明神でのヒット祈願に、主演の松本穂花と登場した
写真/アフロ
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メディアミックスという、今でこそ手垢のついた言葉を旗印に、異業種企業が次々に映画界に押し寄せてきました。その企業の多くを率いるのは、若く野心的な経営者。彼らが旧態依然とした日本の映画作りに対して疑問をぶつけると、中堅どころの脚本、監督、俳優といった製作者は売られたケンカを買う形で、若手は自分たちに巡ってきたチャンスを逃すものかとぶつかり合い、その熱量は完成した映画にも色濃く反映されて日本映画界は突然の活況を呈することになったのです。

そうなると閑古鳥の鳴いていたスタジオはにわかに活気づき、仕事を求めてテレビやコマーシャルに流出した映画の黄金時代を支えた優秀な人材の穴埋めとして、お鉢が回ってきたのが俺たちのような浮草どもでございました。

兎にも角にも原作・横溝正史、監督・市川崑、1976年公開の角川春樹事務所作品『犬神家の一族』を皮切りに、日本映画は質、量ともに持ち返し、それは新たな野心的な企画を立ち上げるにふさわしいプラットフォームへと復権してきたのであります。

その流れに乗り、追い風を受けて始動したのが、音楽プロデューサーの多賀英典製作、村上龍=原作・脚本・監督の新作映画『だいじょうぶマイ・フレンド』なのです!