1980年代の映画雑誌の役割

映画雑誌に限ったことではないですが、雑誌を読むときに「最新情報をいち早くキャッチ」できる喜びは欠かせません。その役割は今ではネットの情報に取って代わられてしまった感も無きにしも非ずですが、映画を見ることよりもまず、どんな映画がこれから作られるのか? それはどんな内容なのか? 原作は何か? キャストは誰か?といった、今でこそ手に入って当たり前のことを雑誌やラジオ、テレビを通して収集しなければならず、あの頃の高校生であった私は、製作ニュースを誰よりも早く耳にすると、まるで仕事として映画に関わっているかのような気分で高揚し(あくまでも気分に過ぎないのに!)、その続報を誰よりも先に手に入れ(といっても情報ソースは書店で普通に売ってる雑誌だから誰でも平等に手に入れることができるものなのに!)、完成を楽しみにすることで自身が映画に近づいたかのような錯覚を起こし始めていました。

その発端は遡ること3年ほど前、中学生の頃に一世を風靡した、角川春樹事務所製作のベストセラー小説を原作とした大作映画群…それらを紹介するために刊行された映画を中心とする情報誌「月刊バラエティ」。今なお刊行されているアメリカのエンタテインメント情報紙と同じ名前だけど、その日本語版として発売されたわけではなかったようで、誌面は大原則として角川映画の宣伝が第一義でした。それまでの常識的な慣習を破った角川映画の大胆な作りかたを紹介する傍ら、ほかの面白そうな日本映画の紹介にも誌面が割かれるようになっていきました。

日本映画の情報はといえば、もっぱら「キネマ旬報」。当連載の源流でもある「ロードショー」、同日発売の競合誌「スクリーン」はともに洋画スター専門を謳っており、邦画の紹介なんかごくわずか。その頃の日本映画同様に困窮を極めていたのが、とにかく日本映画を紹介するメディアだったのです。その閉じた状況下に突如として現れたのが、映画では角川映画であり、雑誌では「月刊バラエティ」だったのです。

『幻の湖』への失望の後、大作を経て、樋口真嗣の心に映画作りへの自我が生まれる。「俺のほうがうまく作れるのでは?」という、修羅の道への志が!【『海峡』】_1
ジャッキー・チェン以外、全員欧米女優の1982年のロードショー表紙。 特集にも、薬師丸ひろ子の名前が散見されるほかは、邦画は1本もない。
©ロードショー1982年/集英社
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宮崎駿も大友克洋も、その名を知ったのは「キネマ旬報」や「アニメージュ」ではなく、「バラエティ」のインタビュー記事や連載でした。佐藤慶、成田三樹夫といった個性派俳優のインタビューが読めるのも——。
思えばその頃から、新しく作られる映画を誰よりも先に知るための情報源であり、その映画がどんな映画になるかを予測するためにその映画に関わるクリエイター…もっぱら監督だったりするのですが…その監督の作品履歴を遡り追いかけたりして、予測と期待を膨らませるのです。

1982年にもなるとその角川映画の破竹の進撃もピークに達し、その年の暮れにはプロデューサーを務めてきた角川春樹が、大藪春彦の最高傑作である小説に基づき、遂に監督としてメガホンを取る『汚れた英雄』(1982)が公開され、後の世をして俯瞰すると、あれがいろんな意味でピークだったなと思えたりもしますが、それはまた別のお話。