古谷田奈月さんの最新刊『フィールダー』について熱き議論が展開された、ゲーム愛好家のライター・倉本さおりさん、ゲーム作家で文筆家の山本貴光さん、同じくゲーム作家でライターの米光一成さんという3名による鼎談。作中のソシャゲ「リンドグランド」を語り大いに盛り上がった前編に続き、後編では、本作の「出版社小説」としての側面について議論を深めていく。
(※【後編】については、ネタバレ要素が数多く含まれるため、『フィールダー』読了後にお読みになることをおすすめします!)
構成/山本ぽてと
「出版社小説」としてのリアリティ
米光 ゲーム小説としても素晴らしいですが、この本は出版社小説としても読めますよね。
倉本 そうそう。出版社小説としてもリアルですよね。主人公は出版社勤務で、人権に関わる社会問題を扱っている「立象スコープ」という雑誌の編集者です。この出版社では、スクープ命の週刊誌もあるし、インテリア雑誌も、文芸誌もあるし、人気少年漫画雑誌もある。
山本 社会の中で複数のルールが走っているように、ひとつの会社の中にも複数の部署があり、それぞれに複数のルールがあって、それらの摩擦によって軋轢が生まれている様子が描かれていますよね。
倉本 フェミニズムに対して感度が高い文芸誌が「同意のない性的接触を陽気に、肯定的に描いていると、少年漫画雑誌の編集部に指摘していていがみ合っていたり。以前からセクシュアルマイノリティについて丁寧に「立象スコープ」では扱ってきたのに、社長が同性愛嫌悪の言説をSNSで書いてしまったり……。非常にリアルです。
米光 児童福祉の専門家である黒岩に、差別反対の雑誌をやっているのに、自分の会社の社長が差別しているのはどう筋を通すつもりか? と問われますよね。橘はそれに対して「筋を通さない」と言います。
橘の提言は、ひとりの人間がひとつのルールで縛られなくていいっていう主張だと思うんです。家では家のルール、会社は会社のルール、会社の中でも雑誌ごとのルールがあり、それぞれのルールでいい。ひとりの人間がルールを無理に統合して、ひとつだけに選択しなくていいのだと。橘の考え方が僕はすごく好きだなと思いました。
「かわいい」が生み出すバグ
米光 ただ、この本は基本的に「やめてー!」って思いながら読みましたよ。橘はゲームで出会った十代の隊長を、橘が担当する著者で児童福祉専門家の黒岩文子はアカツキという少女を、それぞれ「かわいい」と思う。その「かわいい」を理由に行動していくから、どんどん現実のルールと乖離していってしまう。
橘は同期の週刊誌の記者に、「一年と三十万字くれ」、断定するのは早いと言っているわりに、「かわいい」の前ではすぐに決断しちゃうでしょう。橘は隊長の親の話を一切聞かずに隊長を北海道まで迎えにいっちゃうし、黒岩は小学校に問い合わせまでして違うって言われているのに「あの子はネグレクト」と断定している。でもあれって何の根拠もないですよね。「かわいい」による暴走だと思いました。
山本 本当ですね。「かわいい」の前では思考停止して、合理的じゃない方を選んでしまう。
米光 最初の方では橘に感情移入して読んでましたけど、最後に犬と隊長を引き離そうとするじゃないですか。隊長は犬と一緒じゃないと行かないって言ってるのに。あそこで、橘が嫌いになりましたね(笑)。
倉本 しかも隊長のいないところでその話を進めている。
米光 そう。隊長は犬と一緒に暮らせると思っているのに、見知らぬおっさんと二人きりで暮らさないといけないという。
倉本 あの土壇場で犬と一緒がいいと言い出す隊長のめんどくささもうまく表現されてますよね。写真では「かわいい」少年だけど、実際の人間はめんどくさい。橘のやっていることはめちゃくちゃですが、一方であのやり方じゃないと、橘は現実の局面にログインし続けることができないんだろうなと私は捉えました。
山本 橘は法律や倫理、社会を作っているルールが念頭にあるのでしょうね。最後に犬を隊長から引き離したのも、自分の賃貸契約上、犬は置けないと考えたようだし。彼は自分の生活を成り立たせているルールを守ることにこだわりがあるんだなと。
米光 お二人のような読み方もできますけど、自分は隊長を独り占めしたいんだなと思って読みましたよ。社会のルール以前に、もし飼えたとしても引き離したんじゃないか。それが「かわいい」のバグで、もう暴走してしまっている。
山本 そうか。当人は気づいていないけど、自分の欲望の方を優先したんだ。
倉本 確かに……。隊長が自分のお母さんのことについて、「人の役に立つのが好きな人だよ」と言ったときなんか、橘はカチンと来て、ぼっと燃え上がる。あれは嫉妬ですよね。
山本 「かわいい」というのは、曖昧でいろんな使い方ができてしまう感情表現ですが、それぞれの人物が則ろうとしているルールでは捌ききれないものがこの言葉に託されているとも言えそう。「かわいい」は、異なるシステムの間をつないだり、明確なルールを攪乱するバグとして働いたりもする。この小説は橘でも黒岩でもなく「かわいい」が主人公なのかもしれませんね。今のところ私たちは「かわいい」という言葉でしか表現できていないけれど、複雑で入り組んだ感情があって、それが人々を実は動かしている……。
理屈、現実、欲望の三すくみ
米光 読んでいて不思議だったのは、橘も黒岩もなにかの「当事者」になろうとすることです。もっと具体的には、マイノリティ性を孕んだ当事者として、社会と闘う「フィールダー」になろうとしていく。
専門家でありながら理論しか転がせないことについて、黒岩が「実際に世界を動かすのはワーカーだ」とこぼしたとき、橘は「先生もワーカーですよ。フィールドワーカーです。理論を突き詰めることが実践なんです」と言っているのに、橘もまた、なにかの当事者になろうと必死に足掻く。言っていることとやっていることが違う。当事者じゃないからできること、フィールドワーカーの立場だからやれることって本当はたくさんあるはずなのに。
それって不思議だなと思います。僕はゲームをつくっていますけど、ゲームって架空のルールで現実の当事者性がないものだからこそいいと思うんですよ。当事者だと身動きできなくなった者を救えるかもしれないじゃない。でもここに出てくる黒岩と橘は、すごく当事者になりたいという欲望を持っている。
山本 黒岩は福祉専門家として、橘は編集者として上手くやっていますよね。だからこそ、そうじゃないフィールドで、コンプレックスを抱いてしまうのかもしれません。なにかの当事者になろうとして実践に惹かれていく。
米光 黒岩も、過去の実績や児童福祉の専門家としてメディアに対して述べてきたことをすべて放り投げて、実践者として全部反対のことをやってしまいます。
山本 二人ともその点、頭でっかちですよね。頭の中で「これはこういうもの」と決めつけて処理している領域と、そうした決めつけでは対処しきれなくて、自分ごととして何かを選んだり決めたり実行しないといけない実践の領域――それが「フィールド」なんだと思いますけど――そのアンバランスに翻弄されている。頭でっかちの世界のルールを大切にしているけれど、フィールドではそれで片付かないことが次々と起きていく。
理屈としてのルールと、それを現実へ適用することのギャップにこの人たちは悶え続けているのかもしれないですね。さらにそこに自分の欲望も紛れ込んで、三すくみのような状態になってしまう。そして実践にとりくみ始めて、人や世界と関わって行く中で、時には読者が「やめてー!」と思う方向に動いたり、変わっていってしまう様子が残酷なまでに書かれている。
倉本 橘が犬を預けようとするのが、敵対視していた少年漫画編集者の家であるというのも効いていますよね。この編集者は、リアルな場ではすごく嫌なヤツで、文芸の編集者から批判されても「まがいもののリベラリズムで俺たちをぶったたきやがって」と言う。フェミニズムは欺瞞だというスタンスだし、新人漫画家にSNSでパワハラを告発されたりしている。でも橘がいきなり犬を預かってもらえないか打診したら、検討してくれる上に「子どもらはすぐ情が移るだろうから、別れさせるときを考えると面倒だ」とまともなことを言う。
あのシーンは橘の、いわゆる机上のルール、頭の中で考えた倫理やルールに自分を適応させていく方向とは違って、彼が自分の内側のルールに則って生きている人であることを描いていた。だからこそ、動物への情、子どもへの情があり、彼にはある種の強度がある。