8月下旬の刊行以来、読む者にじわじわと衝撃と熱狂を及ぼしつづけている古谷田奈月さんの最新刊『フィールダー』。ソーシャルゲームが一つの大きなモチーフである本作をめぐって、ゲーム愛好家のライター・倉本さおりさん、ゲーム作家で文筆家の山本貴光さん、同じくゲーム作家でライターの米光一成さん、3名の鼎談が実現した。
問いの奥へ、奥へ……。まるでダンジョンに誘われるかのような本作の読書体験について、議論は縦横無尽に展開。まずは前編、作中に登場するゲーム「リンドグランド」と、登場人物たちとゲームの複雑な関係性を深掘りする。
構成/山本ぽてと
ゲーム作家は「神」なのか
倉本 今回の鼎談の経緯として、まず私の個人的な事情として『フィールダー』の書評を依頼していただいたのですが、ご指定いただいた文字数の1000字では、到底収まらなくてですね。
山本 無理もありません。
倉本 私自身もゲームが好きなこともあり、今日は1000字では収まらなかった分、特にこの小説の根幹を担っているゲームについてのお話をしたいなと思い、ゲーム制作者でもある山本さんと米光さんにお声がけしました。
山本 本当にこれはすごい小説ですね。ちょうどついこの前まで「ELDEN RING」というゲームの世界で「王」を目指す旅をしていたこともあって、図らずもシンクロしながら読みました。
米光 いやぁ、食らってしまいました。ゲーム小説が好きでよく読むのですが、ベスト5を入れ替えないといけないなと思いました。ゲームをモチーフにしつつ、ゲームの抱えている矛盾、例えば課金のようなところにも切り込んでいる。怖い作品です。
倉本 作中には、総合出版社勤務の編集者である主人公・橘がハマっている「リンドグランド」というスマホゲームが出てきます。これはスマホゲームながらも、本格的MMORPG(大規模多人数で同時に参加する形式のオンラインRPGゲーム)である部分が本作の肝になっている。そして橘と一緒にパーティーを組んでいる「隊長」は、〈俺の敵は神ですw〉〈この世界を作ったやつ〉〈神を信用しちゃいけない〉と言っています。この「神」は運営会社の社長・瀬尾吾一こと「セオゴー」なる人物で、隊長はセオゴーに本気で腹を立てている。
山本 神か……。米光さんはゲームの作り手でいらっしゃいますが、神の側にいる感覚はありますか?
米光 全然ないですね。
山本 ないですよね。
米光 もちろん世界をつくっているという感覚はあります。でも、今のソーシャルゲームをつくっている人とは感覚が違うかもしれません。この小説はスマホ時代のソシャゲならではの物語であり、ゲームが日常にかなりの密度で食い込んできている。しかも「ガチャ」を回して強いアイテムをゲットするわけで、現実のお金でゲームの内容が影響されるわけです。日常とゲームが非常にリンクしている。
僕がつくってきたゲームは、日常とは別のワールドにみんながルールを共有して入るものです。現実世界の年齢やお金を持っている/もっていないは関係なく、その世界の中ではフラットに戦えるもの。だから今の「お金を持っている人が強い」というゲーム観は、僕が思うゲームじゃないなぁという感覚はありますね。山本さんはどうですか?
山本 私もプレイヤーとしては、いわゆる「札束での殴り合い」は好みではありません。どちらかというと、配られたカードで勝負するのを楽しみたい。
少しゲームに関わる話をすると、作り手としては、1994年から2004年までネット以前のゲームを企画・開発していました。パッケージで売るタイプですね。それから近年、2015年から5年ほどソーシャルゲームの会社でクリエイターの教育や企画の仕事をしていました。ソーシャルゲームの場合、ゲームをつくる「開発」に加えて、ゲームをリリース(公開)した後の「運営」という要素がありますね。つまり、そのゲームで日々遊ぶプレイヤーの様子を見ながら、あれこれ調整をかけてゆくのが運営の仕事です。その運営の現場では、日々「今日は何人がプレイして、一人当たりいくら課金して、継続率はどのくらいで」といったデータを見ながら、「この頃、離脱者が増えてきているから、施策を打とう」と話し合ったりしています。この場合、お客さんを数字として見るわけです。
この小説にも出てきますが、ゲーム中でイベント、つまりゲームでは基本的に決まった手順を繰り返すところ、そうしたルーティンとはちょっと違う特別な仕掛け、出来事を用意することがあります。例えば、いまから24時間のあいだは、特別に用意されたボスを倒すと、そこでしか手に入らないアイテムを入手できる、といったものです。あるいは、人気のあるマンガなどとのコラボレーションのようなこともありますね。小説では、他のプレイヤーとランクを争うイベントが描かれていました。このタイプのイベントでは、競争心をあおられるプレイヤーもいて、有利にプレイするためにガチャをたくさん回したりする。要するに、運営サイドとしては、どうやってプレイヤーのみなさんにお金を使ってもらうかという発想で、そうしたイベントを、手を変え品を変え実施するわけです。
倉本 その話、ゲームをする側として、すごく身につまされますよ。私は「Art of war」というスマホアプリのゲームをやっています。これは野良でもプレイできるのですが、いろんなアイテムが手に入るし、情報も入りやすいし、勝ちやすいので、だいたいの人はギルドに入るんですよ。最初は無課金で効率よくやるためにギルドに入ったはずなのに、ギルドに入ったことによって、「もっと頑張らなくちゃ」という意識が芽生え、いつの間にか、課金している人が大半になってしまうという……。
山本 まさに狙い通り!
ユーザーと運営、それぞれの視点
倉本 隊長が運営側を「神」と言うように、世界にどっぷり没入している間は、ゲームのユーザーからするとその世界の上位存在に見えてしまう。この小説では、そうした立場の反転や無化がいろんなレベルで描かれていますよね。例えば、橘の勤務している出版社に、取引先としてセオゴーがやってきて、ロビーでたまたま遭遇する。
山本 主人公とセオゴーが偶然に遭遇するシーンは印象的でしたね。それまで、ゲームの世界をつくっている「神」と、たまたま出会ってしまう。姿が見えない間は頭のなかだけにいる抽象的な存在だけれど、いざ目の前に姿が見えて、そればかりか言葉を交わせば、否応なく「人間」になってしまう。もはや「神」ではなくなってしまう。これって私達がインターネットでさんざん体験してきたことでもありますよね。かつては、作家もアーティストもアスリートも、いわば一種の「神」だったわけです。その作品やパフォーマンスのみを通じて触れていた。どんな人物かはわからないし、そのイメージは演出によってコントロールもされていた。でも、SNSでかれらが自分の言葉で語り始めたらなにが起きたか。良くも悪くも人間としての姿が見えるようになり、神ではなくなった。作品はとてもいいんだけど、人間として敬意を持てない、というギャップがSNS以前に比べて生じやすくなったと言いましょうか。
米光 このセオゴーは、主人公に「リンドグランドやってます!」と言われたら喜んで、頼まれてないのにサイン書いちゃったりして……。すごい気持ちがわかるなと思いましたよ。ゲームをプレイしている人ってなかなか会えないんですよね。
倉本 こうした立場の反転については、「リンドグランド」で主人公が一緒にパーティーを組んでいる「隊長」のことをゲーム廃人のおじさんだと思っていたら、実は十代であったと判明する場面でも描かれていきます。
同じようなことが、現実で私がプレイしている「Art of war」でも起こったんですよ。ちなみに、せっかく世界中の人と繋がれるのに日本語のギルドに入っちゃうともったいないと思って、カタルーニャのギルドに入っているんですけど。
山本 なぜにカタルーニャ!?(笑)
倉本 なんとなく……。チャット欄も全部カタルーニャ語なので、Google翻訳を使いながらコミュニケーションを取っていました。ギルドの面々も、「副社長」の私がまさか日本人だなんて思っていなかったようです(笑)。ある日、自分の年齢を言ってみないか? という流れになって、そうしたらみんな40以上で、最年長は70歳。てっきり自分以外はみんなZ世代かと思っていたよ! とお互いに笑い合いました。
山本 今のお話はまさにゲームあるある、SNSあるあるですよね。『フィールダー』で、実際には16歳の隊長を、主人公は30代くらいだろうと誤認したように、私達はゲームやネットを通じて断片的な手がかりしかない他人について、勝手にイメージを投影したりする。数本の骨しか残っていない化石から、元の姿を復元するようなもので、場合によってはとんだ思い違いもするわけです。
倉本 隊長はゲーム全般について詳しくて、優れた戦術家で、パーティーのみんなに指示を出す頼りになる人間だった。橘は隊長に「父」のイメージを重ねて見ていたのに、十代だとわかり「何かあった時の責任はすべてこちらに来る」配分の関係に逆転していく。加害や被害、大人が責任を持つこと、そうした前提が全部崩れていくので、読んでいて揺さぶられていきます。
「ロール(役割)」を担うということ
山本 本当に揺さぶられます。この本のひとつのテーマとして、「ロールを担う/ロールを降りる」ということがあると思います。登場人物のそれぞれが、様々な場面でロール、つまり「役割」を引き受けたり、その役割から降りて「野良」になったりする。橘はゲームの中で、積極的に選ぶわけではないものの、結果的には回復を担当するヒーラーとしてのロールを選びますね。
米光 それは橘が現実世界で、社会問題を扱った冊子をつくっている編集者であることと重なりますよね。
山本 そうそう、作家が言葉でもって積極的にものをつくるロールだとしたら、編集者はその執筆がよりよいものになるようサポートする立場でもあります。でもどうやらゲームの中では、ヒーラーを「役に立たない」と忌み嫌うプレイヤーも多い。「リンドグランド」のプレイヤーたちは、「ヒーラーは邪魔だし非効率」と思い込んでいる。力で押せば道を切り開けるゲームなんだから、攻撃の足しにならないヒーラーなんて要らないでしょうと。
でも他方では、隊長のように、このゲームの世界のしくみをとことん観察して分析していくと、ヒーラーの存在意義というか重要性がわかってくる。ゲームをよりうまく効率的に進めることを目指すなら、真に合理的なのは隊長のような見方かもしれない。
そうした、ものをよく見ない断定が、ゲームの中でも起きるし、ゲームの外の現実でも起こる。古谷田さんはその様子をパラレルに描いていて、本当に巧みだと感じました。
米光 作中には、「一年と三十万字くれ」という台詞が出てきますよね。橘と深く関わる著者が起こしたとされる事件を追っている同期の週刊誌記者に対して、橘は、この件を記事にするには一年と三十万字必要なんだと訴える。「それより削れば人が死ぬ」と。
倉本 あそこは身につまされました。一方で、この小説のあらすじを1000字で書こうとしている自分……(笑)。
山本 断定するには早いんだよ、何もかもと。私も、このセリフにはいろんなものがこもっているなと思いました。
米光 橘はゲームの中で、ヒーラーに徹していますよね。多くのゲームではヒーラーはヒールも攻撃もできますけど。
山本 そう、それでも、隊長が「ヒールに徹しろ」と厳しく言うのだと最初の方にありましたね。だから橘はヒーラーに任された以外のアクションを起こさない。
倉本 隊長は一番優先して守らないといけないのはヒーラーで、ヒーラーさえ生き残っていれば、他は死んでも俺たちは負けていないんだと言います。でも例えば、私がやっている「Art of war」なんかでも、最近まではゲームの中盤までしかヒーラーの出番がなかったんですよ。課金すればするほど、最初の火力一発でいけるから。
米光 ヒールが必要になる前に倒すぜという、割と乱暴なやり方ね。
倉本 課金だったり、物量だったり、要は「力」でものを言わすぜと。新自由主義的な社会において、現実はそうなりつつありますよね。ヒーラーを大事にするというのは、そういったものに対する反駁があると思うんですよ。
山本 「リンドグランド」はどうかといえば、ヒーラーが活躍できるように設計されていると思いました。例えば、一体のボスを倒すのに30分以上かかったりするわけで、時間がかかればかかるほど、敵の攻撃を受ける頻度も高くなるし、回復(ヒーリング)が必要となる道理です。
先ほど触れた「ELDEN RING」をつくっているフロム・ソフトウェアは、基本的にゲームの設計が「鬼」なんですよね(笑)。「やられて覚えろ」というスタイルのゲームです。プレイ開始時点での弱くてプレイヤーの経験も少ない間はもちろんすぐにやられてしまいますが、自分が強くなっても、初対面のボスには手もなく倒されてしまったりする。ヒーリングが必要です(もちろん超絶技巧を身に付けた一部のプレイヤーは別ですが)。
制作サイドの視点で言えば、ゲームで楽しんでもらいたいポイントをどう設定するのかという話でもあります。作り手がヒーリングを軽視しているゲームだと、先ほど話に出たように、課金で攻撃力を上げていけば、やがてヒーラーは必要なくなる。でも「リンドグランド」はヒーラーが必要で、どの立場も活躍できるような世界なのではないかなと思いました。
倉本 確かに、隊長が見つけた裏技も、タンク(盾役)にクラスチェンジしないとできないものです。いろんな役割の人たちを生かさないと攻略できない建付けのゲームですよね。