【トランスジャパンアルプスレース(TJAR)】
日本海/富山湾をスタートし、太平洋/駿河湾のゴールまでの約415Kmを自らの力で走破するレース。北アルプスから中央アルプス、そして南アルプスを、自身の足のみで8日間以内に踏破する。厳しい選考をクリアした30名だけが出走できる。
「スポーツ」を超越した究極のレース
「走る」
TJARの実像を伝えるために著書『激走! 日本アルプス大縦断 ~2018 終わりなき戦い~』の中で何度も記したこのフレーズは、実のところ、「比喩」と言っても差し支えない。
30人の参加選手の目前には岩稜が立ちはだかり、暑夏の日差しを浴びて熱せられたアスファルトが足を執拗に痛めつけ、気まぐれな暴風雨が吹き荒れ、命を一撃で奪いかねない落雷だってある。肩には重荷を背負い続ける。テレビ番組では疾走感を表現するために、文字通り走っている映像を意識して使ったが、レース全体では「選手はフラフラになりながらも歩き、進み続けている」といった方が事実に近い。
「走る」という言葉でこのレースを表現するのは生ぬるいのかもしれない。
テレビの電子番組ガイド(EPG)では、このレースを記録した番組は「スポーツ」にカテゴライズされる。だが、果たして「スポーツ」なのだろうか。
「スポーツ」はラテン語で〈遊ぶ、気晴らしする〉を意味するdeportareという単語が語源だ。
一方で、選手たちは自らの身体をあえて日本列島の脊梁(せきりょう)に叩きつけたいがために、長い間鍛錬を重ね、精神を律し、試練の場をくぐり抜けてきた。大会期間中に撮りだめられた膨大な映像素材に映し撮られているのは、大半がキツそうな選手の姿、表情である。なかにはケガをし、心身不調を訴える者もいる。あまりにも過酷で、笑みを浮かべる姿はほとんど見られない。気晴らし、という言葉が持つ軽めの語感とは、いささかかけ離れているように思える。
しかも選手たち全員が、市井に暮らしている普通の人々だ。家庭で父としての役割を求められ、職場で職責を負い、使える資金が潤沢というわけでもなく、休暇だって好きにとれるはずがない……それが平均的な姿ではないだろうか。