「誇り」という最上の宝
きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。
そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、
私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところ
ぜんぶにじぶんが行ってないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、
すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたせなかったせいなのだ、と。
『ユルスナールの靴』 須賀敦子
この一文は、ぶらぶらといろいろな書籍を手に取っているときに偶然に出会ったものだ。
この世で自分なりの居場所を探そうとすると、その過程で確信のないまま取捨選択をし、何かを切り捨て、本意ではないかもしれぬことを受け入れ、往々にして後から悔悟の念にかられる。そんなことがありはしないか。
選手の中の数人が異口同音に口にしていた「自分が探していたのはこれだ」という言葉。
世間の中で折り合いをつけていくこととの引き換えに、つい置き忘れてしまったものが、このレースの中に見つかるかもしれない、彼らはそう感じたのではないだろうか。その場へ行くのはちっとも簡単ではないけれども必死の思いでたどり着き、「自分にフィットする靴」を探り当てたのではないかと。
その靴の輝きは、夏が過ぎると褪せてしまうのだろうか。邯鄲(かんたん)の夢、だとでも?
いや、そうではない。それはきっと、選手たちの心の靴箱の中で最も輝かしいポジションを占め続けるに違いない。そして、これから先の人生を送っていく上で、思ったときに取りだして履き直し、いつでも自分に誇りを感じることのできる最上の宝となったはずである。