『銀河鉄道の夜』の神様論争

大澤 様々な「特殊な物語」と「空疎な普遍性」がある、ということではなくて、普遍性というものを感じるのは、どういうふうに言えばいいかな……。たとえば宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』の中に、神様論争という有名な部分があります。 

『銀河鉄道の夜』では、ジョバンニという主人公が友達のカンパネルラと一緒に銀河鉄道に乗っているんですよね。実は既にカンパネルラは死んでいて、あの世に行く鉄道の可能性が高いんだけど、とにかく二人は鉄道に乗っている。そして、その中にいろんな人が乗っているわけです。二人は、彼らと少しずつ仲よくなったりもするんだけども、みんな少しずつどこどこの駅、どこどこの駅で、降りていくわけです。 

これはひとつの寓話になっているんです。つまり、それぞれ自分の物語や自分の場所に皆、降りていくわけです。仲よくなったと思ったら、「いや、僕はここで降りなきゃいけないよ、さようなら」ってどんどん降りて行ってしまう。 

でもジョバンニたちは特殊な切符を持っていて、車掌がびっくりするんです。「これは永遠にどこまでも乗っていくことができる特別な切符ですよ、どこかで降りなきゃいけないことはない」と。つまり唯一、全ての場所に行ける、横断的に行ける普遍性の切符を持っているわけです。 

それで「神様論争」というのはどういう話かというと、ある姉弟と、その家庭教師がジョバンニとカンパネルラと一緒に乗っていて、仲よくなってくるんです。でも、南十字星の駅に来たら、お姉さんが、「南十字星で私たちは降りなきゃいけないのよ」って言う。ところが男の子は、カンパネルラ、ジョバンニたちと仲よくなったんで、「僕は降りたくないよ」と言うんです。ジョバンニたちも、「降りなくたっていいじゃないか、もっと一緒にいようよ」と言う。だけどお姉さんは、「いや、ここで降りなきゃいけないの」。家庭教師も「私たちはここで降りなきゃいけないんだよ、神様がそう言っていますから」というふうに言うわけです。 

そこでジョバンニが「そんな神様は本当の神様じゃないよ」と言う。すると家庭教師が嘲笑したような顔をして「あなたの神様は何ですか、そっちも本当じゃないんじゃないですか。あなたの神様だってウソじゃないですか」と言うんです。 

それでジョバンニは、「いや違う、僕らの神様は本当の本当の神様なんだ」と言い合う、という場面なんです。つまりこれは、普遍性と特殊性の間の葛藤をあらわしているんですね。 

ちょっと話が長くなってしまいましたが、僕がどういうことを言いたいかというと、たとえば、僕らはそれぞれ仲間意識を持っていて、仲間に対して共感する率が高いことはたしかに高い。間違いなくそうです。けれども、仲間じゃない人に対しても、時に「すごいな」と感心することもある。 

あるいは、自分の仲間に対して同情する傾向はもちろんあるけれども、じゃあ自分と関係ない人がひどい目に遭っていて平気でいられるかというと、そうでもない。 

もちろん、どっちかというと仲間を優遇する傾向はありますよ。でも、仲間じゃない人を受け入れなかった時に、後ろめたさを感じない人は、めったにいないんですよね。 

つまり僕らには明らかに「我々意識」というものが確かにあります。しかし「我々」を逸脱する意識というのも、必ずあるんです。「我々の物語」に閉じようとすると、必ずそこから漏れてしまうものに対して、僕らはある思いを持ちます。そこに普遍性というものの鍵があると僕は思うわけです。