谷口太規氏(左)と大澤真幸氏(右)
谷口太規氏(左)と大澤真幸氏(右)
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「論理で説得するだけでは納得しない」場合、何であれば架橋できるのか?

谷口 ナショナリスティックな執着の問題は、「交響圏とルール圏」の問題とも関係があると思います。公共訴訟って、多くの場合、今のルールから排除されている人たちの抵抗運動から始まるんですよね。外国人技能実習生とか外国ルーツの労働者とかは、日本人の労働者と同じ「労働基準法に適用される人」として扱われないことが多い。そういう人たちが、「いや、自分たちも人間なんだから、そちらに含めてください」という、そういうものが出てくる。 

同性婚の問題もそうで、「自分たちの枠を広げる」ということなんですけど、その「パーソナルなストーリーが公共に変わっていく瞬間」が、途中であって。 

LGBTQのコミュニティとか、外国ルーツの人たちのコミュニティとか、その時までは閉じられたように見えるコミュニティがあるわけです。彼らは今、日本のマジョリティーを支配しているコミュニティには属していなくて、「自分たちもそこに入れろ」という争いがあった時、大澤先生がおっしゃった「日本の物語に執着している人たち」と、こちらという、分かれた構造というのは、今アメリカで起きていることも、まさにそうなんです。 

アメリカでは、公共訴訟が必ずしも現在の日本での使われ方だけではなく、たとえばもう同性婚は認められているけれども、「同性婚をした男性について書かれた本を学校で読ませるのは、自分たちの宗教の侵害だ」というような裁判も起きているんです。つまり、公共訴訟はどっちの手段にも使われ得るんですね。 

ある種の分断ができているときに、「ここのコミュニティのアイデンティティを守るために、こっちを排除する」という、そういうようなことが、公共訴訟にもあり得るわけで。 

その時に、もっと広くその人たちを包括する何かというものを構想する、それをつなぐ何かというものを考えないといけないんです。 

だから、夫婦別姓とかについて先生がおっしゃられたように、「論理によって説得するだけでは必ずしも納得しない」という場合、「何であればそういう人々との間に架橋できるのか」ということについて、先生がもしお考えのことがあれば、お教えいただけますか。 

大澤 それは究極の問題なんですよね。 

「交響圏とルール圏」というものがありますが、普通、「公共圏」というのは「パブリック・スペース」とかそういう意味です。でも私の師の見田宗介先生は、「コウキョウ」というのを「交響」、つまり「交響曲」のようにシンフォニックに、「みんなが交響する」、気持ちがすごく合っていて、一つの一体感を感じるみたいな、そういうグループとして捉えた。 

いろんな人たちが、それぞれのやり方で連帯したり、共感し合ったりする。それぞれの違いは許されるべきであるけれども、それらがたくさんあるという時に、「世界を二重構造で考えるべきだ」というのが見田先生の考えで。 

つまり、交響している人たちが、それぞれの仕方で、それぞれの物語を持ったり、それぞれの感じ方、マナーがあったりする。でも、その人たちがさらに究極的にはグローバルな規模で共存するわけだから、その全体として、緩やかな意味での法律の役割が出てくる。違いのある人たちが相互に尊重できるような形のルールというものにしていく、という。