良き死は、逝く者からの最後の贈り物となる
本書で私が書いたのは、こういった人と人とのつながり、家族や親戚、友人たちを巻き込んだ連綿と続く良き関係性を巡るコミュニケーションの物語だったのかもしれない。
ヴォーリズではそれを「命のバトン」という言葉で表す。本稿を確認していただいた奥野医師が、わざわざ当時のカルテを開き、「康彦さんのこんな言葉をメモしていますよ」と教えてくれた。
《この二ヶ月、ずっと寝食を共にして、ようやく息子になった気がした》
《今は自分の娘、息子に『面倒を見てな』と言える気がする》
あ、これがバトンか!
家族の発言までカルテに記録していた緩和ケアの医師に感心しつつ、ああ自分はあのとき心からそうつぶやいたなと振り返る。
今もその感慨というか感興、感触はある。一連の介護体験がなければ人生におけるこういった気づきを見逃していたに違いない。妻や子どもたちもそれに触れることができて幸運だった。
久子は自身の母を巡って、ノートにこう書いた。《夕暮れは、亡母の恋しい時間です。いくつになっても恋しい人です》
母の死から二年経った現在、その感じがよくわかる。ひいちゃん、恋しいもんな。次々やってくる春には梅の古木にピンクの花が咲く。これが咲くと母をより強く思い出す。雪のなかに頼りなげに、でも凜と咲いている(カバー裏の写真がそれです)。
《良き死は、逝く者からの最後の贈り物となる》という警句も学んだ。
確かにひいちゃんは、私たちに素敵な贈り物=命のバトンを手渡してくれたのだった。親の死なんて誰もが経験する当たり前、平凡なことだが、自分の親が死ぬというのは自分だけの特別なことであった。
文/澤田康彦
『この家で死にたいと母は言った 親を自宅で看取るということ』刊行記念トークイベント
日程|2026年5月31日(日)
会場|京都・徳正寺(四条富小路下ル)
詳細・ご予約「メリーゴーランド京都」https://www.mgr-kyoto2007.com/event













