なぜ我々は「死」を意識しなくなったのか

人はだれでも死を迎えるのに、現代の生活からはそれが見えないものとして消し去られている感がある。

人身事故で人が死んだとしても、悼む気持ちよりも先に電車の遅れを気にし、本年1月1日の能登半島地震のニュースを見ても、都会の人々にとってはどこか遠くの不幸に感じられるかもしれない。

能登半島地震で倒壊した家屋
能登半島地震で倒壊した家屋
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しかし悲劇の現場には死が確実に存在し、もし我々がそれを覚知できるのであれば、自身の生が様々な偶然と幸運によって永らえていると思うようになるであろう。

その帰結として、我々は自身を「生かされている存在」として認識するようになり、より誠実に生を全うしようとするのではないだろうか。

このように、人が前向きに生きるためには「死」について考えるという営為が必要であり、書籍『「死」を考える』(集英社インターナショナル)はその重要な手がかりになるであろう。

生々しい死に出会わない現状

なぜ我々が死を意識しなくなったのかという経緯を具体的に考えたときに、葬式の場所が変化したことはかなり大きな影響だったのではないだろうか。

私事になるが、筆者の母親は30年ほど前に亡くなり、病院から遺体が自宅に帰った後、通夜から焼き場に行くまでの数日間を一緒に過ごした記憶がある。

夏の暑い盛りだったので、ドライアイスを敷き詰めているとは言っても20世紀の技術では、遺体にさまざまな変化が生じたことが視認できた。皮膚が黒ずんだり、まさに生気がなくなる過程で、私は否応なく死を受け入れていった。

ところが、近年では病院で死亡が確認された場合、直接セレモニーホールに遺体が搬送されるため、生を終えた肉体にご飯を供えて食事を一緒にし、隣で眠って思索を巡らすという営みが失われてしまった。

それ故に、我々にとって死は一段と縁遠い概念になってしまったのである。