前編から続く
高校時代の出会いから始まったナゴム前夜
「ケラさんは、僕の中学の同級生だった内田(雄一郎、筋肉少女帯のベーシスト)くんの高校の先輩。よくいる、卒業してるのにやたら学校に来るOBでした(笑)。僕は違う高校だったんですけど、彼らは日大鶴ヶ丘(高校)ですね。本城聡章(筋肉少女帯のギタリスト)も一学年上にいて。
僕と内田くんで中学の頃からやっていた『ドテチンズ』、別名『ドンズ』というバンドで、でたらめに作ったデモテープをケラさんが聴いてくれて、“君たち面白いね”って言ってくれたんです。その頃はケラさんもまだ18歳か19歳だったと思いますけど」
1980年代について触れる彼の語り口は、とても滑らかだ。具体的な固有名詞が次々と飛び出し、おのずと当時のシーンの匂いが立ち上がってくる。
交流ができるとすぐに、ケラが「有頂天」の前に組んでいたバンド「伝染病」のライブを見にいった。「伝染病」はニューウェーブではなく、「RCサクセション」や「誰がカバやねんロックンロールショー」(1980年前後に関西を中心に活躍したロックバンド)を彷彿とさせる楽しいバンドだったという。
「ケラさんはバイタリティのかたまりのような人で、いろんなバンドの楽屋に飛び込んでいっては“対バンやろうよ”と誘っていました。後先考えず、とにかくなんかはじめる人なんですよ。そうすると、ケラさんの周りにいろんな人が集まってきて。面白いんで、僕らもひっついて。
それで、田口トモロヲさん(当時、インディーズバンド「ばちかぶり」のボーカル)をはじめとする、ナゴムの連中とも知り合いになっていったんですね」
「俺、今度『ナゴム』っていうインディーズレーベルを作るんだよ。自主制作でやるから、大槻もなんかやってくれよ」としきりに誘う、3学年上の先輩・ケラ。
やがて大槻は、ケラと「空手バカボン」を結成する。
「空手バカボン」とは、大槻(当時のステージネームは“おーつきモヨ子”)、内田雄一郎、ケラの三者によって1983年にスタートした音楽ユニット。
ステージでは、宅録したチープなテクノサウンドをカラオケで流し、大槻とケラが即興で歌うというのが基本スタイルだった。
「空手バカボン」は1983年9月、ナゴムレコードより10曲入りソノシート「バカボンのススメ」をリリース。時系列的には、大槻ケンヂのデビュー作ということになる。
「そう、筋肉少女帯より前なんですよ。あれ(空手バカボン)はね、とにかくケラさんが『一緒になんかやろう』つって。『渋谷のナイロン100%(当時、渋谷センター街に存在したニューウェーブ喫茶店)っていう、いろいろできる店があるから』と、ハコのスケジュールを先に取っちゃったんです。『なんかやろうったって、何やる?』って話になり……。その頃、イギリスで活動するフランク・チキンズっていう日本人の女の人二人組のニューウェーブバンドがあったんです。カラオケ流して、変なパフォーマンスをするバンドが。今から練習してバンドをやるのは大変だけど、フランク・チキンズみたいなのならできんじゃね?って話になったんです。
それで、内田くんのお父さんのエレクトーンで、彼が演奏してカセットテープに録音し、それに合わせて歌うことにしました。曲の合間にはコントをやって。コントはやっぱり、スネークマンショー(桑原茂一、小林克也、伊武雅刀らを中心に1980年代に人気を博したコントユニット)の影響ですね」
ナイロン100%、フランク・チキンズ、スネークマンショー……。
80年代前半のニューウェーブシーンを彩った固有名詞が、大槻の口から次々と飛び出した。当時その界隈に心を奪われていた人なら、思わず胸が熱くなる名前ばかりである。















