大槻ケンヂ「昔から音楽に対してはすごくコンプレックスがある。周りにハンパなく上手い人たちが多いので、とても“ミュージシャン”なんて名乗れない感じなんです」【還暦記念詩集『幻と想』インタビュー 後編】_2

「空手バカボン」とナゴム人脈

「でね、ここは強調して言いたいんですけど、その頃、空手バカボンのコントの台本を書いていたのは、ケラリーノ・サンドロヴィッチではなくて、この大槻ケンヂだったんですよ(笑)! くだらないコントだったから、ドッカンと受けて。そしたらある日ケラさんが、『じゃあ俺も書くよ』って、かなり長尺の演劇的な台本を書いてきた。

ケラさんはずっと前から演劇が好きで、いろいろ観てきた人ですから。“あれっ、ちょっと(空手バカボンとは)方向性が違うな?”と思ったのを覚えていますが、その後ケラさんはすぐに劇団健康(ケラを中心に犬山犬子、田口トモロヲ、みのすけらによって1985年旗揚げ)をはじめたんですね」

そのとき芽吹いたものは、やがて1993年に旗揚げした劇団・ナイロン100℃へと結実し、日本の現代演劇の重要な系譜のひとつを形づくっていくことになる。まさにその萌芽の瞬間を、大槻は輪の内側から、当事者のひとりとして目撃していたのである。

「有頂天」、「筋肉少女帯」をはじめ、「ばちかぶり」、「人生」(石野卓球、ピエール瀧を中心としたテクノユニット。「電気グルーヴ」の前身)、「たま」(『さよなら人類』のヒットで紅白歌合戦にも出演した)など、のちに強い個性を放ち人気を集めるバンドを次々と輩出し、一世を風靡するナゴムレコード。大槻が高校時代に出会った仲間たちとの、なかば遊びの延長のような活動は、その後わずか数年のうちに思いがけない広がりを見せていくことになる。

大槻自身も、「すごいですよね。トキワ荘みたいなものですからね、うん。本当に面白かったと思う」と振り返る。

「ナゴムの連中が集まるのは、もっぱらライブハウスでしたね。新宿ジャムとか渋谷の屋根裏とか。みんなお金もないから、当時、西新宿の小滝橋通りにあった新宿ロフトの前で、車座になって缶ビールとか飲んでた。それが打ち上げだったりする時代です。楽しかったなー」