何を「問題」として語るのか?
解説します。お伝えのとおり、私は教育社会学という、学校をはじめとする社会システムをあえて疑ってみる学問を学んできました。そのせいか、基本的に人々が「問題なんです!」と言うことが本当に問題なのか、常に疑っています。
「問題」は往々にして、「設定」されるものだと経験的・学問的に知っているためであって、ただ性根が曲がっているわけではないと思っていますが、どうでしょう。
ですので、私の場合、ご相談をいただく際には、「これこれが問題なんです」との訴えそのものに聞き入るというより、何を問題だと当人が「語っている」のか? に神経を集中させます。
「猫の手も借りたいとはいえ、あいつは『変わってて』使いにくいんだよなぁ」「あいつ個人は抜群に『優秀』なんですがねぇ、いかんせん〇〇本部長とは水と油で、部内の雰囲気を悪くしてるんです」「『いい人』ほど辞めちゃうんですよねぇ。ややこしい奴らが集まって、ひーこら言いながらやってますよ」
個人の能力の問題に矮小化していないか
これらの嘆きに対して、「結局部長のリーダーシップの問題が〜」「評価制度をてこ入れしないと〜」「採用制度の問題ですよ、求人掲載プランをアップグレードしたほうが〜」などと言っている場合ではないということです。
真にどうにかして力になりたい・現状を変えたいのであれば、愛と少しばかりの勇気を持って、次のようなことを卒直に問うべきではないでしょうか。
○「よい個人」(能力の高い個人)が「よい組織」(「成果」を上げられる組織)をつくっているのか? 逆もまた然りで、「成果」がいまいちな組織は、特定の悪い個人(能力の低い個人)が悪さでもしているのか? 一人ひとりがもっと「優秀」で「稼げる」存在ならば、組織は安泰なのか? ちなみにその「優秀」とは、額に「優秀」とでも書いてあるのか?
○この世に「望ましい性格や能力」と「望ましくない性格や能力」があるのか? 組織で問題を起こすのは、前者を持っていない人なのか?
○言い換えると、自分がまともに仕事ができているのは、自分の能力が高くて、「優秀」だからなのか? あなたを「良し」としてくれている周りのメンバーに恵まれていたり、景気や市場環境がたまたまよいことも多分に影響しているのでは? ……など。
そしてさらに、次のことまで問い尽くす。これが、解くべき問題の「設定」を紐解く、大事な一歩と考えます。
○本当は、組織として策を講じるべきところを、個人の能力の問題に矮小化しているのではないか? 個人の能力の問題にしたほうが都合のいい誰か、つまり特定の人の利害と結びついたまま、問題が「設定」されていないか? 分かりやすさが実際の有用性より優先されるなど、問題解決用に問題視されていないか?
考えはじめると、結構頭が痛いですが。













