「自分は何のために死ぬのか」を考え続けた人たち
前田 佐田尾さんが取り上げられている、陸軍船舶部隊の「暁部隊」なんですが、以前映画『仁義なき戦い』の脚本を書いた笠原和夫だったと思うのですが、著書の中で、「暁部隊というのは上に対して従順じゃない、兵隊らしくない人間を集めた部隊だった」と書いているのを読んだ記憶があるんです。
今回、その本をもう一度探してみようとしてまだ探しきれていないんですが……。それで、先ほど話に出た『戦中派』の古山高麗雄の項に登場する、古山の親友の倉田博光という人がいるのですが、彼が実は暁部隊にいたそうなんですね。名門の家に生まれながらあちこちを転々として、満州に行ったりもしたような人なので、彼も「従順ではない」兵隊だったんだろうとは思います。佐田尾さん、そういう話は聞いたことはないですか。
佐田尾 うーん。本当のところは分からないですねえ。そもそも私が暁部隊について調べ始めたのは、「船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)」の存在がとっかかりなんです。
第二次大戦末期、日本軍は下士官補充のために、まだ15〜20歳くらいの旧制中学在学中の生徒を一応は志願させるなどして「船舶特幹」をつくった。そして、彼らをまず香川県の小豆島に集めて訓練をさせた後、「マルレ」というモーターボートに爆雷を積んで敵艦に突入する水上特攻部隊に配属したわけです。おっしゃるような「従順ではない」兵隊は、その上官・教官だったということになりますけど、どうだったんでしょうね。
ともかく、取材していて感じたのは生と死が紙一重のところにあるということでした。というのは、この船舶特幹には1期生から4期生までいたんですが、1期生と2期生はほぼ同い年なんです。学年は同じで、ただ入隊・入営の日が半年違っただけなんですね。ところが、1期生はマルレに乗せられて、多くがフィリピンや沖縄で戦死しているのに対して、2期生は内地にいる間に終戦を迎えたため、ほとんど戦死者は出ていない。本当に、紙一重だったんだなと思います。
前田 佐田尾さんのお父様も大戦末期に「特別陸戦隊」に入隊され、「地雷や爆雷を抱えて戦車に突っ込む」訓練をされていたそうですが、それはつまり自分が「死ぬ」ための訓練ということですよね。お父様は息子である佐田尾さんから見て、そういう経験をされていると感じるようなところはありましたか。
佐田尾 いや、それはなかったですね。軍隊の話も「嫌な上官の飯にわざとフケを落としてやった」なんていう、軍隊生活を茶化すような話ばかりでした。ただそれは、父の場合は軍隊生活が短かったからということもあると思います。本に出てくる八杉康夫さんのような分隊下士官クラスの人になると、おそらくまた違ったでしょうね。特に八杉さんは戦艦大和の生き残りでもあって、壮絶な経験をされている。お話を聞いていても、それが戦後の生き方にも反映されているんじゃないかと感じることがよくありました。
前田 あの戦争は1945年8月15日にひとまず終わったわけですが、それまで人々はいつ戦争が終わるか分からないまま戦争と向き合っていたわけですよね。つまり、佐田尾さんのお父様のように「死ぬ」ための訓練をしていた人たちというのは、一度は「自分はもうこれで死ぬんだ、終わりなんだ」と心に決めていたはずだと思うんです。
おそらくは「自分は何のために死ぬんだろう」「いかに死ぬべきか」ということまで考えたでしょう。その人たちが戦後もう一度生き直さなくてはならなかったというのは、どれほどの困難だっただろうか、と思います。どうやって「生き直そう」と思い直したのか、それとももしかして思い直すことはできずに、「いかに死ぬか」という気持ちのまま生きていったのか……。そんなことを考えますね。














