忘却に抗って書く─「負の記憶」を伝えるために

原爆供養塔納骨名簿遺族を捜しています

夏が近づくたびに広島市内や各自治体に掲げられるポスターがある。「原爆供養塔納骨名簿遺族を捜しています」と書かれた下には、800人を超える犠牲者の名前が並ぶ。

「氏名に心当たりのある方は、お知らせください」との呼びかけにもかかわらず80年以上過ぎても名前が記載されたままなのは、名乗り出るべき人々もおそらく一緒に犠牲になってしまったということなのだろう。

原爆供養塔には、名前しか判明していない方々と共に名前さえ判明していない7万人のお骨も納められている。数でしかない人々だ。

数でさえない人々もいる。市が一瞬で壊滅したために、いまだに行方や身元の知れない人々が、文字通り数え切れないからである。

2025年初夏、一人の方の身元が判明した。80年かかってようやく「この世にいた一人の人間」として親族にまみえることができたのだ。しかし同じ夏、新たに供養塔に祀られた遺骨や遺灰もあった。前の秋、安佐北区の寺で見つかった名前も数も知れぬ犠牲者のものである。

私が高校生だった頃──戦後四半世紀以上経った1970年代──になってもなお、広島では誰かを捜している人が大勢いた。街で見かけた人に追いすがっては顔を確かめる老婦人、子どもが行方知れずになった場所に立ち続ける母親。まるで今朝出ていった人のことのように「うちの娘がのう……」と話し始めるのをよく聞いてみれば、あの日出かけたきり帰ってこなかった身内の話だったりする。

身近にも、ずっと母親を捜していた人があった。

あの朝、銀行前の石段には一人の女性が座っていた。開店を待っていたのである。夫は数年前になくしていた。娘が一人あった。銀行から生活費を引き出したら、娘の待つ疎開先の村に戻る予定だった。実はこの女性は私の姻戚にあたる。名前を越智ミツノさんという。

うつむいて考え事をしていたようだと、最後にミツノさんを目撃した隣人は語った。オート三輪で銀行前を通りかかって声をかけたら、顔を上げて平素のように優しい表情で挨拶を返してくれたと。

その場を隣人が離れてまもなく、午前8時15分、廣島市の上空で原子爆弾が炸裂した。空には巨大な火球が出現し、途方もないエネルギーが放出されて地表温度は3000度から4000度にもなった。銀行は爆心地から260メートルしか離れておらず、ミツノさんが座っていた石段は爆弾が投下された方向を向いていた。ほぼ即死したであろう。

遺体収容にあたった兵士の証言によると、頭のない黒焦げの身体を持ち上げたら、石段に濃い緑色のあとかたが残っていたという──人のかたちの〈影〉が。〈影〉とはなんだったのか。人の〈影〉だけが残されるというようなことがありうるのだろうか。

長いあいだ一般に理解されていたのは、黒い御影石の階段が強烈な熱線によって白変したが人が座っていた部分だけ盾となって黒いまま残った、という説明だった。

ミツノさんの一人娘幸子さんは、疎開先から市内の実家に戻って母を捜し回った。実家の留守を預かっていた下宿人の話から、ミツノさんは原爆が炸裂した時間には銀行にいたのではないかと思われた。だが、銀行周辺にも救護所にも姿はなく、ミツノさんの行方は杳として知れなかった。

終戦から数日後、ミツノさんがいつも身につけていた火災保険証書が届けられた。暁部隊の兵士が銀行前で拾得したという。不思議なことに、封筒の端がわずかに焦げていただけだった。原爆投下時、塀などの遮蔽物のおかげで被害が減じたり奇跡的に助かったりした例が報告されているが、この封筒も物陰にでも吹き飛ばされたのだろう──激烈な爆風によって。