大の巨人ファンが阪神ファンに…

私が「阪神ファン」になったのは、2003年のこと。一時期スワローズファンだったことはありましたが、じつは幼少期~高校時代までは、タイガースの宿敵ともされる「読売ジャイアンツ」のファンだったのです。

ではなぜ、いまや毎年40試合前後も「現地(甲子園球場ほか)」に出向くなど、熱狂的な阪神ファンになったのか。簡単に紹介させてください。

「わが巨人軍は、永久に不滅です!」

忘れもしません。まだ幼かった1974年10月、テレビから流れてきた名シーン。この日、ジャイアンツのレジェンド・長嶋茂雄選手(2025年没)が、後楽園球場(現・東京ドーム)を埋め尽くしたファンに別れを告げると、客席のファンは感極まって涙を流しました。単純な私は感動をおぼえ、この日から「巨人ファン」になったのです。

もっとも、正確には「野球ファン」と言うほうが正しいかもしれません。

東京生まれの東京育ち、両親も根っからの巨人ファンで、たちまちその後の四番バッター・王貞治選手に夢中に。一方で、次第にピッチャーの配球や攻撃時のサインプレーなど、野球の試合内容そのものを追うようになりました。とはいえ、1977年には王選手が通算756本目のホームランを放ち、世界記録(当時)を樹立。「巨人ファン」であることは、子ども時代の私にとって、誇りでもあったのです。

ところが、です。翌1978年11月、いわゆる「江川事件」、すなわちプロ野球ドラフト会議(12球団が新入団選手を獲得するための会議)の「穴(空白の1日)」を狙い、巨人が江川卓投手と「密約→入団契約」を結んだと報じられると、「あれ? こんなことしていいの?」と、子ども心に「読売巨人軍」への不信感がむくむくと芽吹き始めました。

その芽は2年後(80年)、のちの四番バッター・原辰徳選手が、同じくドラフトで巨人に引き当てられてさわやかに入団したことで、いったん枯れたかに思えたのですが……。1985年11月、今度はいわゆる「KKドラフト事件」が勃発。

PL学園高校時代、清原和博選手と共に「KKコンビ」と呼ばれ、甲子園を沸かせた大スター・桑田真澄投手が、これまた「大人の事情」(密約など)で巨人に入団したのでは? と勘ぐってしまい、「あれほど巨人に行きたがっていた清原選手がかわいそう」と、またも単純に怒りがこみあげ、「もう無理!」と勝手に巨人ファンを降りる決意をしたのです。

PL学園高硬式野球部時代の清原和博氏(左)と桑田真澄氏(写真/共同通信社)
PL学園高硬式野球部時代の清原和博氏(左)と桑田真澄氏(写真/共同通信社)
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実は15年ほど前、桑田さんに何度か直接お会いする機会があり、失礼ながら「KKドラフト事件」についても軽く伺ってしまいました。結論を言えば、この事件はそう単純なものではなかったようなのですが、このころの私は勝手に思い込み…。1986年以降は、複数のチームを彷徨う流浪生活に入ったのです。

このころ、いったんは、清原選手が入団した「西武ライオンズ」のファンに移行。ですが、1992年には「ID(Import Data)野球」を掲げてリーグ優勝を果たした「ヤクルトスワローズ」(の故・野村克也監督)のファンに。

さらに1996、1997年ごろからは、王監督率いる「ダイエーホークス(当時)」を推しながら、「もっと応援にハマれるチームはないか?」と探して、あちこち漂流していた状況でした。

そんな中、この上なくカッコ良く登場したのが、2003年にタイガースを率いた故・星野監督の雄姿。9月15日に彼が胴上げされた瞬間から、正確に言えば、この日の試合で劇的なサヨナラヒットを放った赤星憲広選手を強く抱きしめ、頭をなでる星野監督の笑顔を見た瞬間から「このチームしかない!」と、「阪神ファン」になったのです。