村井邦彦が見抜いた高校時代のユーミンの才能
1966年のビートルズの来日公演から数年ほどが経過した頃、「ニュー・ミュージック」と呼ばれる歌が日本で登場してきた。
マスメディアの一部で使われ始めたその言葉は、「サウンドからも歌詞からも“新しさ”を感じさせる日本語の歌」というような意味だった。
それまではフォークあるいはロックというジャンルに分けられていた。ところが1972年から73年にかけて、新しいタイプの歌が出てきた。
アコースティックギター2本とウッドベースなのに、ソウルやブルースを感じさせるRCサクセション。ビートルズやボブ・ディランの影響を感じさせる井上陽水。スターのオーラを放っていた吉田拓郎のポップな曲などには、「ニュー・ミュージック」と呼ぶに値する“新しさ”があった。
歌謡曲を作っているプロの作詞家や作曲家からは生まれてこない“新しさ”を感じさせる作品は、シンガー・ソングライターの手によって生まれてきた。
そしてアルバム全体で「ニュー・ミュージック」だと思わせた最初のアーティストが、1973年11月にファースト・アルバム『ひこうき雲』をリリースした荒井由実(松任谷由実)だろう。
セカンド・アルバムの『ミスリム』も含めて、ユーミンの歌と音楽は、音楽面で画期的かつ革新的なところがいくつもあった。
そこに必要不可欠だったのが、サウンドにおける新しいビートやグルーヴであり、日本語の表現者としての文学的なセンスだった。
荒井由実のデビュー・シングル『返事はいらない』は1972年7月に発売されたが、そのタイトルや歌詞には、明らかにユーミンだという“新しさ”が刻まれていた。
歌詞は男性に宛てた女性から手紙が主題で、「返事はいらない」というタイトルからして、相手を突き放している。そこには主体的に行動する女性の決断力が感じられる。
女性の意志をこれだけはっきりと打ち出した歌のタイトルは、大正から昭和にかけての流行歌や歌謡曲の中にはほとんど見当たらない。
このシングルが制作されることになったのは、高校生だったユーミンの音楽的な才能に気づいた音楽家の村井邦彦が、シンガー・ソングライターとしての可能性を試したかったからだ。ユーミンはそもそも作曲家志望で、ソングライターを目指して村井のもとに通っていた。
この時に村井がプロデューサーに起用したのが、かまやつひろし。1970年にスパイダースが解散した後にジャンルを超えてソロ活動していた時期だった。
かまやつはユーミンのために、自分の周りで気に入っていた若くて将来性のあるミュージシャンたちを集めてきた。
サディスティック・ミカ・バンドに加入したばかりの高橋幸宏と小原礼は20歳。レコーディング直後に『学生街の喫茶店』がブレイクするガロや、デビュー前だったフォークデュオのBUZZも全員が20代の前半だった。
しかし、自然体でイギリスのストレートなロックにしようと考えていたムッシュと、細かいところも妥協しないユーミンとの初仕事は、いまひとつ歯車が合わなかったという。













