空振りに終わった“スーパー・ヤング・レディー”
もうその頃からユーミンは思い立ったらすぐに行動し、19歳にして自分の手で問題を解決していく決断力を持っていた。最終的にはプロデューサーがかまやつひろし、作詞・作曲・編曲・指揮・ピアノ・ハモンドオルガン・歌が荒井由実とクレジットされた。
しかし、キャッチフレーズ「シンガー&ソング・ライター界のスーパー・ヤング・レディー!!」のデビューは、空振りに終わってしまう。ほとんど注目されなかったシングル『返事はいらない』は、まったく売れなかった。
一方のエグゼクティブ・プロデューサーの村井は、「レコーディングに慣れることで歌に対する苦手意識がなくなればいい」と、余裕を持って構えていた。そして出来上がりを聴いたうえで、アルバムのレコーディングでもう一度トライしようと考えたという。
プロデューサーやミュージシャンを変えることで、新たな化学反応が起こることを期待してのことだった。村井は最も信頼していた細野晴臣に力を借りて、アルバム『ひこうき雲』を自らプロデュースするのである。
『ひこうき雲』は、1973年の初夏に本格的なレコーディングが始まった。演奏を担当したのは、結成間もないキャラメル・ママだった。ユーミンの作る楽曲に期待をかけていた村井は、元はっぴいえんどの細野晴臣にアレンジを頼むことにした。
その頃の細野は、アラバマ州の外れにある小さな町、マッスルショールズのスタジオで仕事をするミュージシャンたちが作り出す、独特のサウンドに強く惹かれていた。
アメリカにはそうしたミュージシャンのチームやスタジオがいくつか存在し、そこでしか出せない独自のサウンドによるヒット曲や傑作アルバムが生まれていた。
1973年2月から3月にかけてレコーディングした初のソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』は、リラックスできる自宅で細野が気の合うミュージシャンたちと、およそ1か月かけてセッションしながら仕上げたものだ。
そこに集まったミュージシャンたちとチームを組んで、その後も活動したいと思って結成されたのがキャラメル・ママである。はっぴいえんどから細野晴臣と鈴木茂、小坂忠のバック・バンドだったフォー・ジョー・ハーフから、林立夫と松任谷正隆が参加した。
当時のレコーディングといえば、そのほとんどは、編曲者が書いたパートごとの譜面をもとにして、ジャズ出身のミュージシャンによるコンボ、またはフルバンドで吹き込むスタイルだった。そこではスタジオに集まった大人数のミュージシャンたちが、機能的に効率よく短時間で仕上げることが基本になっていた。
それに対してキャラメル・ママの場合は、少人数で譜面を用意しないことが多く、リズム・セクションによるヘッド・アレンジに特徴があった。簡単なコード譜や歌詞を手がかりにお互いのフィーリングを尊重し、アイデアを出し合いながらスタジオでじっくり仕上げていく方式だ。
ただし、時間を気にせずにセッションしながら作るとなれば、1時間単位で料金をカウントされるスタジオでは、コストが掛かり過ぎることが問題になる。
しかし、村井は荒井由実に対して、「ユーミンの音楽とブレンドすればきっと素晴らしい作品になるんじゃないか」と、キャラメル・ママとのセッションでレコーディングすることを提案した。













