あまりの早口で、日本語なのに歌詞がテロップで流れた

ただし、『勝手にシンドバッド』はすんなりとデビュー曲に選ばれたわけではない。

デビューシングルを『勝手にシンドバッド』で出したい桑田佳祐と、『別れ話は最後に』を推す高垣の意見が折り合わず、話し合いが持たれた。

その時に決め手となったのは、所属していた事務所の社長である大里洋吉の判断だった。

サザンオールスターズはレコード会社からのデビューが決まりかけたところで、キャンデーズのマネージャーだった大里が前年に設立した新しい事務所「アミューズ」に所属していた。

サザンのデビュー曲になったかもしれない『別れ話は最後に』も収録されているアルバム『熱い胸騒ぎ』(1985年8月25日発売、ビクターエンタテインメント)のジャケット写真
サザンのデビュー曲になったかもしれない『別れ話は最後に』も収録されているアルバム『熱い胸騒ぎ』(1985年8月25日発売、ビクターエンタテインメント)のジャケット写真

6月25日に発売された『勝手にシンドバット』は、チャートでは初登場132位だった。甲斐よしひろは7月7日、再びラジオ「若いこだま」でオンエアしてプッシュした。

そして7月23日、甲斐バンドが日比谷野外音楽堂で開催したコンサートに、サザンオールスターズがオープニングアクトとして出演した。短い時間ながらもライブは大好評だった。

さらに記念すべき初めてのテレビ出演は7月31日、歌番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)である。

バンドのメンバーはタンクトップとジョギングパンツ姿で、リオのカーニバルのダンサーたちをバックに熱唱した。あまりの早口で歌詞が聞き取れない多くの視聴者のために、その日は日本語なのに歌詞がテロップで流れた。

写真はイメージです(PhotoAC)
写真はイメージです(PhotoAC)

学生バンドらしくアマチュアっぽいルックス、歌詞の字面を追ってもほとんど意味不明の日本語、それまでとはまったく異なるタイプのバンドは大きな反響を呼んだ。

当時はほとんどのロックバンドがテレビとは無縁で、声が掛かっても背を向けていた時代だった。だが「日本人は歌謡曲」だと思っていたので、彼らは積極的に出演するようになった。

このあたりからレコードの動きが、少しずつ良くなってきた。そして決定打となったのが、その年から始まった人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS)への出演で、それを可能にしたのは大里のアイデアだった。

1978年1月から始まったランキング・スタイルの歌番組『ザ・ベストテン』が、放送時間にスタジオに来られなければ、歌手がいる場所にまで中継車を出して現地から生放送するという、それまでにない斬新な内容で視聴率はうなぎのぼりとなった。黒柳徹子と久米宏が司会をするのも新鮮だった。

番組独自の集計による『ザ・ベストテン』のチャートは、レコードの売上だけでなく有線放送やラジオのオンエア回数、それに番組の視聴者からのリクエストはがきで作られている。

写真はイメージです(PhotoAC)
写真はイメージです(PhotoAC)

レコードの売上は操作できないが、有線放送やラジオのオンエア回数ならば、人海戦術である程度まで押し上げることができる。リクエストはがきをアルバイトに書かせることも考えられたが、事務所やレコード会社の大量投票は不正とみなされるとハネられてしまう。

そこで大里は日本全国のイベンターに、有線放送やはがきでラジオ番組にリクエストを出すように応援を求めた。

甲斐バンドの日比谷野外音楽堂のコンサートでオープニングアクトに出たサザンオールスターズを見て、将来性に注目していたイベンターたちはブレイクを見込んで結束した。

さっそくリクエストはがきで協力しただけでなく、秋の学園祭にブッキングすべく、各地の学生たちに売り込んだのである。