「もっと歌のうまい人に歌ってほしい」永六輔、坂本九に怒り…

1961年7月21日の午後。東京・大手町の産経ホールでは、人気ジャズ・ピアニストにして第1回日本レコード大賞受賞の新進作曲家、中村八大による『第3回中村八大リサイタル』のリハーサルが始まっていた。

「ウへッフォムフフィテ、アハルコフホフホフホフ……」

会場の舞台袖に立ってステージを見つめていた舞台監督の永六輔は、思わず耳を疑った。

「はじめまして、坂本九と申します」と、今しがた愛嬌のある笑顔で挨拶されたばかりの少年が歌っている。大舞台での緊張からか直立不動となり、明らかに足をガタガタと震わせている。

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震えはともかく、歌い方がちょっとふざけすぎだと思った。この歌の作詞をしたのは自分なのだ。永六輔は驚きと怒りを胸に秘めて、リハーサルが終わるとすぐ中村八大に抗議した。

「何なんですか、あれは!? もっと歌のうまい人に歌ってほしい。日本語を大切に歌ってほしい!」

だが、中村八大は「あれでいいんだよ。あれがいいんだ」と、まったく取り合ってくれなかった。それどころかとても評判がよく、クレージーキャッツのハナ肇が「いい歌だな」と言うと、女優の水谷良重(現・八重子)も「こういうのヒットするのよ」と、楽屋の廊下で会話していた。

そしてNHKの音楽バラエティ『夢であいましょう』のディレクターだった末盛憲彦も大いに気に入り、番組ですぐに取り上げることを決めた。

このとき中村八大30歳、永六輔28歳、坂本九19歳。

後に「六・八・九トリオ」と呼ばれることになる3人の『上を向いて歩こう』は、こうして産声を上げた。