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1976年は日本ロックの集大成の年だった
――「1976年の新宿ロフト」にフォーカスした本を書こうと思ったきっかけはなんだったんでしょうか?
平野悠(以下同) 新宿ロフトの過去のスケジュールを見ていると、1976年の10月1日から10日間かけて行われた、オープン記念ライブのラインナップが目立ってすごいんですよ。
ムーンライダーズ、桑名正博、高橋幸宏や高中正義がいたサディスティックス、センチメンタル・シティ・ロマンス、南佳孝、吉田美奈子、矢野顕子、大貫妙子、遠藤賢司、りりィ、山崎ハコ、長谷川きよし……他にもたくさん。
昔のファンも若い人たちも、これをみるとみんなぶっ飛ぶわけですね。だから、その時期のことを中心にして、1984年に僕がいったん日本を離れるまでのロフトの歴史をまとめてはどうかという話になったんです。
――1976年という年は、やはり平野さん自身にとっても特別な意味を持っているんでしょうか?
その数年前に日本のロックが産声をあげてからすごい勢いで発展してきて、次々才能のある音楽家が出てきたわけですけど、1976年っていうのはそういう時代の集大成みたいな時期ですよね。
それまでマイナーだった日本のロックがニューミュージックと混じり合いながら市民権を得はじめた時代。けれど、後にそうなるようには完全に大衆化もしていない。だから、キャパ300人の新宿ロフトにこれだけのメンツが集まったっていうのもこの時期ならではのことですよ。
――日本のロックが広く商業的な成功を収めていく前夜がその時代だったということでしょうか。
そう。このくらいの時期からレコード会社の連中も「ロックが売れるかもしれない」ということに気づきだすんですよね。それまではレコード会社の社員でライブハウスをまともに相手にしていた人間なんてほとんどいなかったのに(笑)。
――先ほど名前の上がったアーティストの一部は、現在では「シティポップ」と括られて都会的でオシャレな存在として語られたりもしますが、当時の平野さんはどういう印象を抱いていましたか?
どうなんですかねえ。あの時代、確かに「はっぴいえんど」が出てきて以降、いろいろな流れがあったと思うんですけど、オシャレだったかなあ……(笑)。もっと後の時代になって、80年代からそういうイメージが出てきた気がするけどね。少なくとも、当時はオシャレなんてものじゃないですよ。
むしろ、自分たちが演奏できる場所にはどこへでも出ていくぜ、自分たちの表現をするんだ、これからは俺たちの時代なんだ、っていう意気込みのほうがすごかったですね。
――後のスターたちもほとんどがまだ20代だったわけですよね。
そう。サザンオールスターズだって、下北沢ロフトに出ていた頃なんてジーパンも汚いし、オシャレなんていうのとはほど遠かったですよ(笑)。