レイ・チャールズの生涯を決めた大切なもの

ソウル・ミュージックの顔役として、サム・クック、ジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、アレサ・フランクリンらと並び、長年にわたって偉大な功績を残したレイ・チャールズ。

ジョージア州で生まれたレイ・チャールズは、数カ月後には州境に近いフロリダ州北部に移り住んで、極貧に近い暮らしのなかで育った。そこは「田舎のなかの田舎、本当の僻地だった」という。

レイ・チャールズ(写真/Shutterstock)
レイ・チャールズ(写真/Shutterstock)
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しかし、そんな田舎での生活がどん底だったにもかかわらず、レイは3歳の頃に音楽に出会うという幸運に恵まれる。

黒人居住区にあったレッド・ウィング・カフェは、黒人コミュニティの中心的な役割を果たしていた雑貨屋。ワイリー・ビットと奥さんのジョージアが経営していて、部屋の賃貸しもしていたので、一家はしばらくそこに住んでいたこともあった。

そこにはレイの生涯を決めた大切なものが置いてあった。ピアノとジュークボックスである。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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ビットさんはブギウギ・ピアノの達人で、レイが望むだけピアノに触れさせて自由に叩かせてくれた。

もちろん小さなレイは、自力でピアノを弾くことはできない。ビットさんはレイを自分の膝の上に座らせて、「そうだ、坊主! いいぞ!」とつきっきりで、ブギウギの手ほどきをした。

今、振り返ると、きっと彼は私の中に何かを見出していたのだろう。私の中にある何かの才能を感じていたのだ。だからこそ、彼は私の教師役を買ってでたのだ。

レイはまだ子どもだったが、その時から自分のフレーズを生み出そうとしていた。カフェに置かれた音楽の宝箱=ジュークボックスにも、ブギウギのレコードがたくさん入っていた。それから卑猥な歌詞のブルースも。

レイは物心ついた頃から、スピーカーの真ん前の定位置に座って、何時間もそれらを聴いて過ごした。加えてラジオから朝から晩まで流れていたのが、『グランド・オール・オープリー』などの白人向けヒルビリーだった。

こういった音楽的な原風景があったからこそ、大スターになっても、ジャンルに固執せず、黒人のものだろうが白人のものだろうが、レイは一切の区別をしなかった。ただ「心に残るいい歌だからそれを唄いたい」と、いつも思っていたのだ。

私は二つのことにしか興味がなかった。自分自身に誠実、純粋であることと、そして音楽自体に誠実、純粋であることだ。

レイには『What'd I Say』などのオリジナル曲の大ヒットのほか、ジャズスタンダードの『Georgia On My Mind(我が心のジョージア)』やカントリーの『I Can’t Stop Loving You(愛さずにはいられない)』などのNo. 1カバーヒットがある。

ファンクの原点とも言われる、歴史的R&Bの名曲『What'd I Say』。写真は『What'd I Say / ホワッド・アイ・セイ』(2013年4月24日発売、WARNER MUSIC JAPAN)のジャケット写真
ファンクの原点とも言われる、歴史的R&Bの名曲『What'd I Say』。写真は『What'd I Say / ホワッド・アイ・セイ』(2013年4月24日発売、WARNER MUSIC JAPAN)のジャケット写真

レイの純粋な想いが曲に宿ったことで、誰もが「この歌はレイ・チャールズの曲だ」と思うほど、広く深く浸透した。