仮想現実で「老い」を体験してみた

 あと、これは少し未来の話になってしまいますが、本の中でも紹介した「ポストシンボリックコミュニケーション」という、言語的なシンボルを介さず、他者の身体感覚を体験できるテクノロジーがあります。選択的夫婦別姓に反対する人たちの「恐怖」とか「不安」って、感情なので共有できないじゃないですか。でも、それを疑似体験できるような未来があるかもしれません。

たとえば脳の神経細胞が発信する電気記号をコンピューターに伝える、脳コンピュータインターフェース(Brain Machine Interface BMI)。考えるだけでマウスやキーボード操作などを可能にし、将来的には思考、感情、経験といった「心」を他者の「心」へ直接共有できるようになると言われています。

田中 御著書の中でも、高齢者の感覚を体験する話が出てきましたね。あれはどこでやっているんだっけ。

 お台場にある、日本科学未来館という科学を体験する博物館です。外国からのお客さんもたくさん来られるんですけど、そこに「老いパーク」という仮想現実の体験型展示があります。足におもりをつけて、前かがみでカートを押す姿勢で歩いていく。そうすると、仮想空間の信号が、横断歩道を渡っている途中で赤になったり、歩きスマホの若者が突進してくる。こっちは足がすごく重いのに……。あれを体験すると、本当に世界の見方が変わります。僕はもう、目の前でお年寄りの人がゆっくり歩いていても、全然イライラしなくなりました。

日本科学未来館 写真/Shutterstock
日本科学未来館 写真/Shutterstock

田中 すごい効果だ。

 「ああいう状態だったらしょうがないよな」と、お年寄りの方のつらさがわかった。老いパークは他にも、視野が狭くなる、記憶力が悪くなるという体験型展示があり、僕はどれも効き目がありましたし、他人のことを想像する手段として、手っ取り早いと言えば手っ取り早いんですよね。

言語を介さない仮想的コミュニケーションがこれからも進歩していって、高齢者だけでなく、違う文化とか違う宗教を信じている人たちとの共感とか、ロシアとウクライナのように戦争をしている国の人同士でもエンパシー(共感)を高めることができる。そういう未来は来るのではないかと思いました。

「エンパシー」って、今とても重要なキーワードで、なぜかというと、イーロン・マスクが「エンパシーこそがアメリカを滅ぼす感情だ」みたいなことを言っている。「共感なんかするから不法移民がアメリカに居ついている」みたいに言っているんです。

田中 私はもう高齢者だから「老い」は体験しなくてもいいんだけど、でも、本当に全く違う立場の人、全く違う状況で生きている人、それから病を持っている人だとか、いろんな方への共感というのが、私たちの世代だと文学なんですよ。やっぱりそれは言葉なんですね。

文学を通じて他者と共感している。李先生とも現在、石牟礼道子(いしむれみちこ)研究会を一緒にやっていますが、石牟礼道子は標準語ではなくて、方言を使って書いていますね。言葉として目に入るだけではなくて、耳でも聞こえてくるような気がする。方言というのは作られた言語ではないからです。生活の場で話されてきた言語だから、より共感性が高くなるということを、読書を通じて経験してきています。

他者の感覚をデジタルの技術で体験できるというのは一番「早い」かもしれないけども、やっぱり言葉の持っている共感性の襞の「深さ」を超えることは、なかなか難しいかなという気はしますね。

 おっしゃるとおり、標準語は人工的な言語で、決して「東京弁」ではないですね。ですから方言で書かれた石牟礼道子の文章を読むと、やっぱり脳みそだけじゃなくて体に来る。

田中 そうなんですよ。

 文字がもたらす「シンボリックなエンパシー」は確かにあるので、新しいテクノロジーがあるから、文字の記憶はもう要らないとなると、もったいないなとは思います。ただ、これまでのメディアとかテクノロジーの歴史を見てみると、なぜか古くなったメディアって、そのまま消えないんです。

田中 そうそう。不思議ですね。

 たとえばラジオなんかも、テレビができて、インターネットができて、ラジオなんて誰が聴くんだ?と思いきや、むしろ今の若い人ってラジオを聴くんです。ですからこの先メディアとかテクノロジーが進歩していっても、文字は消えるのではなくて、文字にしかできないこと、文字にしかできない共感の形というのがより浮彫りになってくるのではないでしょうか。

石牟礼道子は、文字による共感を突き詰めた人として、これからもずっと残っていくのではないかと思います。

構成/高山リョウ 撮影/岩根愛

テクノ専制とコモンへの道 民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?
李 舜志
テクノ専制とコモンへの道 民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?
2025年6月17日発売
1,188円(税込)
新書判/264ページ
ISBN: 978-4-08-721369-0
世界は支配する側とされる側に分かれつつある。その武器はインターネットとAIだ。シリコンバレーはAIによる大失業の恐怖を煽り、ベーシックインカムを救済策と称するが背後に支配拡大の意図が潜む。人は専制的ディストピアを受け入れるしかないのか?
しかし、オードリー・タンやE・グレン・ワイルらが提唱する多元技術PLURALITY(プルラリティ)とそこから導き出されるデジタル民主主義は、市民が協働してコモンを築く未来を選ぶための希望かもしれない。
人間の労働には今も確かな価値がある。あなたは無価値ではない。
テクノロジーによる支配ではなく、健全な懐疑心を保ち、多元性にひらかれた社会への道を示す。
amazon 楽天ブックス セブンネット 紀伊國屋書店 ヨドバシ・ドット・コム Honya Club HMV&BOOKS e-hon
PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来
オードリー・タン (著)、 E・グレン・ワイル (著)、 山形浩生 (翻訳)、⿻ Community (その他)
PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来
2025/5/2
3,300円(税込)
624ページ
ISBN: 978-4909044570

世界はひとつの声に支配されるべきではない。

対立を創造に変え、新たな可能性を生む。
プルラリティはそのための道標だ。

空前の技術革新の時代。
AIや大規模プラットフォームは世界をつなぐと同時に分断も生んだ。
だが技術は本来、信頼と協働の仲介者であるべきだ。

複雑な歴史と幾多の分断を越えてきた台湾。
この島で生まれたデジタル民主主義は、その実践例だ。
人々の声を可視化し、多数決が見落としてきた意志の強さをすくい上げる。
多様な声が響き合い、民主的な対話が社会のゆく道を決める。

ひるがえって日本。
少子高齢化、社会の多様化、政治的諦観……。
様々な課題に直面しながら、私たちは社会的分断をいまだ超えられずにいる。

しかし、伝統と革新が同時に息づく日本にこそ、照らせる道があると著者は言う。

プルラリティ(多元性)は、シンギュラリティ(単一性)とは異なる道を示す。
多様な人々が協調しながら技術を活用する未来。

「敵」と「味方」を超越し、調和点をデザインしよう。
無数の声が交わり、新たな地平を拓く。
信頼は架け橋となり、対話は未来を照らす光となる。

現代に生きる私たちこそが、未来の共同設計者である。

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江戸問答
田中 優子  松岡 正剛
江戸問答
2021/01/20
1,100円(税込)
382ページ
ISBN: 978-4004318637
江戸問答とは、江戸の社会文化から今に響きうる問いを立てることである。近世から近代への転換期に何が分断され、放置されたのか。面影、浮世、サムライ、いきをめぐる、時間・場を超越した問答から、「日本の自画像」を改めて問い直す。誇りたい日本、変えたい日本、語り継ぎたい日本がここにある。『日本問答』に続く、第二弾。
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