止まらない「自国ファースト主義」の亢進…その気になればアメリカは「世界最強のならず者国家」になれる背景
第二次世界大戦後のアメリカは超覇権国家として国際秩序を主導してきた。だがアメリカは今、その政策を大きく転換しようとしている。アメリカだけでなくハンガリー、ポーランド、オランダなどの欧州でも極右政党が選挙によって台頭し、「自国ファースト主義」を掲げている。そんな状態は危険だと警鐘を鳴らすのは思想家の内田樹氏だ。
書籍『沈む祖国を救うには』より一部を抜粋・再構成し、二度の世界大戦を経て「近代市民社会」の実現に向けて歩んできたはずの人類の歴史を見つめ直す。
沈む祖国を救うには#3
「近代市民社会」は幻想か?
テキサス州やカリフォルニア州の独立運動も発想は同じである。自分と同質の者だけと部族を形成してその利益を最優先する。「純化と縮減」である。
カリフォルニア州旗
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この傾向が加速すれば、アメリカはいずれ「国としてのまとまり」を失うことになりかねない。公共はいったん解体し始めると、あとはもう歯止めが効かない。
「共同体は純度が高いほどよい」というルールを採用すれば、同じ部族内であっても、純度の高さを求めて、さらに小さな同質集団に分裂することはもう止められない。
公共を形成するための努力─理解も共感も絶した他者との共生の努力─を拒否すれば、どんな共同体もいずれは解体する。オルテガ※はそれを「野蛮」と呼んだ。
今、私たちが直面しているのは「近代の限界」というより「前近代への退行」である。
ということは、論理的に言えば、今必要なのは「近代の復興」、「近代への回帰」だということになる(論理的にはもう一つ「近代の限界を突破して、見たこともない世界に突き抜ける」という加速主義(accelerationism)の選択肢もあるが、「見たこともない世界」に突き抜けるプロセスでどんなリスクがあるかについて加速主義者たちは想像力の行使を惜しむ傾向があるので、私はこの立場を採らない)。
それに、「復興」とか「回帰」という言葉を使うと、まるで過去に近代が存立したことがあるようだけれど、もしかすると、「近代市民社会」などいうものはまだ歴史上一度も実現したことがなかった幻想かも知れない。
だとしたら、「近代市民社会の実現」こそが私たちに課された歴史的使命だということになる。
※オルテガ・イ・ガセット スペインの哲学者
写真/Shutterstock
2025/3/27
1,100円(税込)
208ページ
ISBN: 978-4838775293
なぜ日本はこんなにも「冷たい国」になったのだろう――
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激動の国際社会の中で、沈みゆく「祖国」に未来はあるか!?
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ここ数年で、加速度的に「冷たい国」になってしまった日本。
混迷を極める永田町、拡大する経済格差、税の不均衡、レベルが落ちた教育界など問題が山積となっている。
また、アメリカの新大統領がトランプに決まり、国際情勢も先行きが不安定である。
生活苦しい国民に手を差し伸べることのない冷たい国で、生き抜いていくためにはどうしたらいいのか……。
この「沈みゆく国」で、どう自分らしく生きるかを模索する一冊!
<項目>
★「観光立国」という安全保障
★「最終学歴がアメリカ」を誇る、残念な人々
★ 加速する「新聞」の落日
★「食糧自給率」が低い――その思想的な要因
★ 第二期トランプ政権誕生の「最悪のシナリオ」
★ 民主政の「未熟なかたち」と「成熟したかたち」
★「自民党一強」の終焉
★ 80年後に残る都市は「東京」と福岡のみ
★ 今、中高生に伝えたいこと ……etc.
<本文より>
今の日本は「泥舟」状態です。一日ごとに沈んでいるし、沈む速度がしだいに加速している。
もちろん、どんな国にも盛衰の周期はあります。勢いのよいときもあるし、あまりぱっとしないときもある。それは仕方がありません。国の勢いというのは、無数のファクターの複合的な効果として現れる集団的な現象ですから、個人の努力や工夫では簡単には方向転換することはできません。歴史的趨勢にはなかなか抗えない。
勢いのいいときに「どうしてわが国はこんなに国力が向上しているのだろう」と沈思黙考する人はいません。そんなことを考えている暇があったら、自分のやりたいことをどんどんやればいい。でも、国運が衰えてきたときには、「どうしてこんなことになったのか?」という問いを少なくとも、その国の「大人」たちは自分に向けなければいけません。【中略】 読者の中には、読んでいるうちに「自分こそが祖国に救いの手を差し伸べる『大人』にならないといけないのかな……」と思って、唇をかみしめるというようなリアクションをする人が出て来るような気がします。そういうふうに救国の使命感をおのれの双肩に感じる読者を一人でも見出すために僕はこれらの文章を書いたのかも知れません。 ――「まえがき」一部抜粋