リオ後、一気に冷めた車いすバスケへの情熱

2016年9月7日、リオパラリンピックが開幕。日本は当時過去最高成績だった7位よりも上の順位を目標に掲げ、世界最高峰の舞台へと乗り込んだ。しかし、予選リーグ突破のカギとされていた最初の3試合で、トルコ、スペイン、オランダのヨーロッパ勢に立て続けに敗れ、早々に決勝トーナメント進出の可能性が潰えた。

[2016年リオパラリンピック] 主力ラインナップの1つ「ユニット5」の一人として世界の舞台に挑んだ(写真:X-1)
[2016年リオパラリンピック] 主力ラインナップの1つ「ユニット5」の一人として世界の舞台に挑んだ(写真:X-1)

結局、予選リーグは1勝4敗に終わった日本は、9、10位決定戦へ。最後はイランを65-52で破り、白星で大会を終えたものの、4年前のロンドンパラリンピックと同じ9位という不本意な結果で幕を閉じた。初めて目の当たりにした世界との差に、鳥海は衝撃を受けていた。

「当時、僕は自信を持っていたんです。もちろん簡単に勝てる相手ではないし、厳しい試合になることはわかってはいました。ただリオまでの国際大会を経験するなかで、相手の強さを感じながらも日本は勝てると思っていたんです。でも、日本は世界の中で9位にしかなれなかった。自分自身も中学からの約5年間、一番楽しいと思える友だちとの遊びよりも車いすバスケを優先にして多くの時間を費やしてきました。それでも世界レベルの実力とは程遠かった。“これだけ頑張っても、こんなものなのか”と、車いすバスケへの気持ちを保つのは、かなりきつかったです」

初めてのパラリンピックで世界のレベルを痛感した17歳の鳥海連志(写真:X-1)
初めてのパラリンピックで世界のレベルを痛感した17歳の鳥海連志(写真:X-1)

それは、鳥海の人生の中で初めての経験だった。幼少時代から何をやっても一生懸命に取り組みさえすれば結果がついてきた。ところが、車いすバスケだけは違った。精一杯の努力は結果にはつながらず、残ったのは虚しさだけだった。鳥海は、リオ後、日増しに車いすバスケから気持ちが離れていった。

ほとんど辞めるつもりだったという鳥海だが、リオから約2カ月後、運命の糸にたぐりよせられるようにして、彼は日本代表のユニフォームを着てコートに立っていた。鳥海が冷え切っていた車いすバスケへの気持ちに再び情熱を灯した背景には、ある人物の存在があったーー。

リオの翌年に迎えた大舞台で、鳥海の気持ちを再燃させた選手とは?(写真:長田洋平/アフロスポーツ)
リオの翌年に迎えた大舞台で、鳥海の気持ちを再燃させた選手とは?(写真:長田洋平/アフロスポーツ)
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写真/X-1 長田洋平/アフロスポーツ   

文/斎藤寿子

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