「小さいころ車いすを速く漕ぐと、危ないと怒られた」車いすラグビーの若きエース、橋本勝也の競技との出会い「死ぬまでやれるとピンときた」_1
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車いすに乗れば、無我夢中でラグビーできる

先天性の四肢欠損で、左右の手指は2本ずつ。3歳で太腿から下を切断した。以後車いすでの生活が始まり、ラグビーとの出会いは中学2年の夏だった。

「だれがこんなスポーツ考えたんだろう!」激しいぶつかり合いに驚いた。「タックルがすごくて、比較的障害の重い選手ばかりやってるし、本当に大丈夫なのかなと」だが実際に乗ってみて、そんな気持ちは消し飛んだ。「あ、なんだ行けるじゃん、って」

「小学生のとき、みんな足で速く走っていて、なので自分も車いすを速く漕ぐと危ないって怒られました。もちろんぶつかるのもダメ。だけど競技用の車いすに乗っちゃえば、全速力で走ってもタックルしてもOK、っていう環境にすごく刺激されました。全員車いすに乗っているので、何も意識することなく無我夢中でラグビーに専念できる。その非日常感が味わえるのがよかったです」

死ぬまでやれると“ピンときた”

すぐに夢中になった車いすラグビー。始めた時から世界を意識していたという。「スポーツをするのであれば、やっぱ一番を狙いたいっていう思いはありますね。この競技が自分の障害に合ってることがわかってきたし、これなら僕も世界一になれるのかなと」

これほど没頭できたものはそれまでなかった。

「ラグ車に乗ったときにピンとは来てたんですよ。この競技だったら長く続けられそうだなって。今まで僕って、何をしても3日坊主だったんです。でも、あっこれは本当にたぶん、死ぬまでって言ったら大げさかもしれないですけど、長く続けられそうって感じたんです」そして笑顔を見せる。

「それにやっぱ、タックルしたときに『すっきりするなー』『ストレス発散になるなー』っていう快感もありますね」

自分を変えた東京での悔しさ

競技を始めてわずか2年で日本代表に選出された。その後19歳で迎えた2021年の東京パラリンピックでチームは銅メダルに沸いた。しかし出場時間はチームで一番短く、自分のプレーに納得できないまま終わった。

その時、同じハイポインターで主力として活躍した池崎大輔は橋本の胸のうちをわかっていた。「『お前、悔しかっただろう。俺らは勝也に期待をしている。勝也にはそれだけのポテンシャルがあるから、俺らは待ってるから這い上がって来いよ』って言われました」

「小さいころ車いすを速く漕ぐと、危ないと怒られた」車いすラグビーの若きエース、橋本勝也の競技との出会い「死ぬまでやれるとピンときた」_2

「思い起こせば、自分がどういうふうに考えてプレーしてたかっていう記憶が、あんまりないんですよ。部活の経験もないし、まわりの選手は年上で、コミュニケーションも自分から取れなかった。観客の前で試合することも慣れていなくて、頭が真っ白になりながらずっと来たというか」

だが池崎のこの言葉は頭から離れない。「今も覚えてます。もうその言葉を思い浮かべただけで、すげえ涙が出てきそうになるんです」。当時の悔しさがよみがえる。「刺さりました。自分自身に対する甘さをすごい感じて。意識もトレーニングメニューも一新しました。あの言葉がなかったら、今の自分はいないんじゃないかな」