「適齢期になれば結婚するのが常識」であった時代にあってさえ…

5時半に目が覚めてしまった。

8時くらいまで寝ていたいのだが、寝付けない。しかたがないので、起き出して『日本の論点』(※文藝春秋が発行している年刊誌)の「非婚」についての原稿に手を入れる。

これはブザンソンで原型を書いたのだが、「結婚したくない人」と「結婚したいけれど、機会に恵まれない人」を同じ「非婚」というカテゴリーにくくって論じるのは、やっぱり無理があるよな、と昨日の夜、小津安二郎の『秋日和』を見たあとにベッドの中で、益田ミリの『すーちゃん』を読んでいて感じたのである。

『秋日和』は1960年の映画で、例のごとく「なかなか結婚しない娘(司葉子)を結婚させる」ために佐分利信、中村伸郎、北竜二の3人のおじさんたちが暗躍するという話である。

あまりに面白くて、何度も笑い出してしまった。

バーのカウンターでパイプで鼻翼をこすりながら「急いじゃいかん」という場面とか、「じゃあ、リンゴも俺が食ったことになってるんですね」とか、佐分利信があの「地獄の底から響くような声」で、少しも可笑しくない台詞を呟いて、観客を爆笑させる演技の妙は洋の東西を問わず他に類例を見ないものである。

『秋日和』公開当時のポスター
『秋日和』公開当時のポスター
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ともあれ、映画を観ながら、たしかに、あの時代にも、こういう「ハイパーうるさいおじさん」たちが「じゃあ、いいんだね。話、進めるよ」(『彼岸花』にもまったく同じ台詞が出てくる)と強引に(ほとんど「はた迷惑」というレベルの強引さで)若者たちを結婚させていなければ、非婚率は今と変わらないほどに高いパーセンテージに上ったであろうと思ったのである。

小津安二郎は『晩春』も『麦秋』も『秋刀魚の味』も『秋日和』も『彼岸花』も秀作はことごとく「娘を結婚させる話」である。

これらの映画の過半は「縁談」にかかわる会話で占められている(『秋日和』に至っては90%がそうである)。

「適齢期になれば結婚するのが常識」であった時代にあってさえ、大の大人がこれだけのエネルギーを投じて、人々はようやく結婚にたどりついたのである。

それを思うと、このような迫力のあるマッチメイカーたちがほとんど底を払ってしまった現代において、まだこれだけ「結婚にたどりつける人」がいるというのはなかなかたいしたものだという気になってきた。

結婚に関する考え方は案外変わっていない?
結婚に関する考え方は案外変わっていない?

映画の中でも、「はやく結婚したい」ということを言う若者はほとんど登場しない(そんなことを口走るのは、三上真一郎とか桑野みゆきとかが演じる「無思慮な学生」たちだけである)。みんな「まだそんな気になれません」と言って、あれこれ理由を挙げて結婚を先延ばしにしようとする。

それを大人たちが無理押しするのである。

非婚志向はもしかすると40年前の方が強かったのかもしれない。

そうでなければ、佐分利・中村・北のような強力トリオの出場が要請されるはずがないからである。

そう考えると、当今の非婚趨勢は、若者たちの「非婚志向」が強まったからではなく、若い人たちを本人の意向を無視して、「無理やり結婚させる」社会的圧力が失われたことが最大の原因なのかもしれない。