車椅子ソフトとの出会い

今もリュージュの普及活動に忙しく動き回っている髙山だが、10年ほど前、もうひとつの「聞いたこともなかった」競技と出会った。車椅子ソフトボールだ。

ボブスレーの北海道合宿の時に、北翔大学のゼミのカリキュラムとして研究や普及活動を行っているグループを紹介され、関係者から協力を依頼された。

「ソフトボールと名の付くものなら、お手伝い出来ることがあればやりますよ」と快諾。それが始まりだった。軽い気持ちで試合を見に行き、プレーしてみたら、「これは面白い。見るのとやるのとでは全然違う」とすぐにハマった。

4年前にファンの男性と豪快婚。“女大魔神”髙山樹里(45)が、日本車椅子ソフトボール協会会長になっていた_1

同じソフトボールと名前が付いても、中身はサッカーとラグビーくらいの違いがあった。というか、難しさに圧倒された。車椅子ソフトは、もともとは障がい者のリハビリの一環として始まったもので、米国では半世紀近い歴史がある。それを車椅子バスケットの選手が渡米した際に見て、日本に持ち帰ったことが始まりだと言われている。

初めてプレーした時、「これ、絶対無理!」と思ったという。

まずは〝走る〟(車椅子を走行させる)ことから練習を始めた。「もともと車椅子を漕ぐスキルがないですから」と言う。ただ走るだけでなく、止まること、曲がること(方向変換)。そこからボールを使うことに取り組む。

投げることに加えて、バットを使って「打つ」ことがある。ピッチャーがスローピッチで投じた山なりのボールを、脊髄損傷などで体幹が使えない人は、片手で勢いを付けて打ったりする。

今、日本では障がい者も健常者もバリアフリーで競技に参加し、試合も行っているのだが、それが相乗効果となり、技術レベルが上がっているという。車椅子を使っていた障がい者が車いすのスキルをみんなに教え、健常者がバッティングの技術を教える。それが噛み合って、どんどんレベルが上がっていく。

DeNAなどで活躍した元プロ野球選手の古木克明もチームに所属しプレーしているのだが、あれほどのスラッガーでも、最初は思うようにプレーすることが出来ず、周りから「ほんとにプロ野球選手?」と冷やかされていたという。

とはいえ、もともとトップに行くような選手は負けず嫌いだから、「上手くなりたい」と思ってやっているうちに、どんどん夢中になっていく。髙山もそうだった。そして競技にのめり込んでいくうちに、一つの夢が生まれた。

「これを世界で普及させて、パラリンピックの競技になったら面白いな」