東京2020パラリンピック、プライドをかけた目標をついに達成
鳥海にとって2度目のパラリンピックは、すべてが異例づくしだった。2020年に新型コロナウイルス感染症が拡大してパンデミックとなり、その年に予定されていた東京2020オリンピック・パラリンピックは史上初の延期となった。
日本代表の強化合宿も中止が続いたなか、鳥海は自分自身ででき得る限りのフィジカルトレーニングに励み続けた。40分間走り続けられるだけの強靭なスタミナを養い、5年間で約20センチ高くした車いすでも持ち味のスピードやクイックネスが失われないよう、チェアスキルを磨いた。
鳥海が理想としてきた高さとスピードを兼ね備え、攻守にわたって柱となる“オールラウンダー”への階段を、コロナ禍の中でも人知れず上り続けていたのだ。
21年秋になってようやく再開した合宿では、その成果が表れた。5対5のゲーム形式での練習で、鳥海が入ったラインナップはいずれも負け知らずだった。鳥海は、「今度こそ」と大きな手応えを感じながら、本番までの1年間を過ごした。
そして、ついに待ちに待った“その時”が訪れた。21年8月26日、東京2020パラリンピック初戦の日、試合前に京谷和幸ヘッドコーチ(HC)からスターティング5が発表された。キャプテン(当時)の豊島英、チーム最年長の藤本怜央、初のパラリンピック出場の秋田啓と川原凜の4人と共に名前を呼ばれたのは、鳥海だった。
「よし、勝ち取った……」
鳥海は、心の中でそっと喜びをかみしめていた。代表入りした時からの目標、リオでは叶わなかった“スタメン出場”をついに成し遂げたのだ。
結果的に鳥海は、8試合中7試合でスターティング5に名を連ね、そのうち2試合は40分間フル出場と、チーム最長のプレータイムを誇った。さらにリバウンドとスティールの数は、堂々の3位にランクインするなど、スピードと高さを兼ね備えたパフォーマンスで日本を銀メダルへと導いた。
東京パラリンピック後、鳥海に対する称賛の声は絶えず、メディアの露出も増えていった。しかし、鳥海自身は自分を特別だと思うような“勘違い”はしなかった。東京パラリンピックから3カ月後のインタビューで彼はこう語っている。
「東京の後、“メダリストとは?”と考えたこともありました。でもメダリストだからどうすべきと考えること自体、過信なのかなと思いました。メダリストになったから練習を頑張るわけでもないし、人を大事にすることも変わらないなって。そして本業以外の仕事をいただけるのはすごく嬉しいですし、いろいろな経験ができてありがたいと感じています。でも、そういう仕事をすればするほど、自分はあくまでもアスリートなんだということを実感するんです。“やっぱり鳥海連志は車いすバスケットボール選手だ、ということを示していかなければいけない”ということをひしひしと感じます。だから僕はこれからもプレーで結果を残し続けていくことを一番大事にしていきたいと思っています」
それは、東京パラリンピックから1年後、“有言実行”となったーー。