「人の目が気になったし、恥ずかしかったのでパラ出場は考えていなかった」眞田卓選手の車いすテニスとの出会い_1
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足を失った不安の中で出会った車いすテニス

交通事故で右足を切断した19歳。「障害者になりたてで、どう社会に出たらいいのか、右も左もわからず、不安でいっぱいでした」義足も不自由だったという。「切断したての時って義足を履くだけで痛いんです。

歩くなんてその倍も痛いし、圧迫感があって、とてもスタスタ歩けるもんじゃありません」 障害者の輪に入って少しでも安心感を得られればと、始めはつながりを求めていた。

「義足を作るために入院していたリハビリ病院で車いすバスケットの授業を見学しました。車いすのスピーディな動きに『すごいなーっ』って感心したのが、この世界に入ったきっかけですね」この授業後に、参加していた生徒さんから声をかけられた。

「ぼくが学生時代にソフトテニスをしたことがあるって言ったら、車いすテニスをやってみない?』って誘われたんです」 社会との接点を作る意味で「埼玉県車いすテニス協会」に入ったが、車いすテニスの楽しさにも目覚めた。

「乗り物を操作するっておもしろいんです。義足よりもずっと自由に動けて、しかもテニスができるんですから」車いす競技に魅力を感じながら、障害者コミュニティを楽しんだ。

海外選手に勝利して世界が見えてきた

「人の目が気になったし、恥ずかしい気持ちがあったので、パラ出場は全く考えていませんでした」月に数回、楽しむためにテニスをし、年に3回くらい大会に出場した。でも、転職した会社の人にも勧められて、本格的に取り組むようになりました」2010年には有給を使って国内大会を回り始めた。

「日本での国際大会にも出場したところ、当時世界ランク15位以内だったオーストラリアのベンウィークス選手に勝ったんです。その時、自分は世界でも通用するんじゃないか?って思いました」 となれば、目指すは日本一を決定する全日本マスターズ。結果は3位入賞だった。

「プロに転向して、ロンドンのパラリンピックを目指すことになりました」海外遠征も積極的に開始した。

「人の目が気になったし、恥ずかしかったのでパラ出場は考えていなかった」眞田卓選手の車いすテニスとの出会い_2

初めての海外遠征はシドニーオープン。

「初日に体調を崩して、ホテルでドクターに診てもらい、薬を処方されたんです」そこで先輩の国枝(慎吾)選手から「その薬、ドーピングに引っかからないか確認して」って言われて。

「あっ、そういうのがあるんだ、とハッとしました」本当にプロ選手として活動するんだと実感しました瞬間だった。

試合結果は、一回戦敗退。「そのとき悔しまぎれに、今回は実力が出せなかった、って話したんです。そしたら国枝さんに『海外で自分の実力を発揮するのはなかなかできないことだよ。だから練習するんだ』と言われたことを今でも覚えています」。

12年届かなかった夢「グランドスラム」

その後、日本代表として出場したパラリンピックでは、ダブルスの成績が、ロンドンベスト8、リオ4位、東京4 位、シングルスでは東京で9位、シングルランカーの実績だ。

「でもプロになって10年たってもグランドスラム大会に出られなかったんです。」世界ランキング8位にも関わらずに、だ。

「グランドスラムに出ていないことで、トップ選手のボーダーラインに本当にあと一歩届かないと、気持ちが擦り切れていく感じでした。いい位置にいても胸を張れないというか…..」もうやめたいと思ったことは何回もあった。

「でもやっぱりテニスが楽しいので続けられたのだと思います」

粘り強く転戦を重ね、ついに2023年、グランドスラムの全米オープンに出場。そして初出場にして優勝を果たしたのだ。「尊敬するウデ選手とダブルスを組んだんです!」フランスのステファン・ウデ選手は52歳。 北京、リオ、東京パラの金メダリストだ。