頼まれ仕事で母屋を乗っ取らない
それだけではありません。一方で、やなせたかしは頼まれ仕事を請け負って大きな成果をあげても、決して自分がしゃしゃり出て主人公になろうとしない人でした。やなせたかしの仕事は、はっきり2つに分かれます。
1つは自分のライフワークです。もう1つは頼まれてやる仕事です。
ライフワークに取り組む際、やなせたかしは徹底的にがんこです。全部自分でやります。だから、すぐにヒットしたりしません。専門家や業界人から馬鹿にされたり、やめろと言われたりします。それでも、妥協しません。他人の言うことも聞きません。
だからこそ生まれたのが、雑誌『詩とメルヘン』に象徴されるやなせたかし流の抒情詩と絵の世界であり、漫画家が描く絵本の世界であり、アンパンマンの世界です。
いずれも、専門家や業界人は当初、「絶対うまくいくわけがない」「つまらない」「幼稚だ」と馬鹿にしていました。結果は、ご存知の通りです。一方、頼まれ仕事の場合、やなせたかしは与えられたオーダーに120%応えます。
「千夜一夜物語」の制作にあたって手塚治虫のオーダーに数々のキャラクターデザインで応えたように。しかも頼む側にとって安心だったのは、やなせたかしが母屋を乗っ取るようなことは絶対にしない人だったからです。
ビジネスの起業の世界では、起業家と創業メンバーとが途中で仲違いして、起業家の地位を後から加わった創業メンバーが乗っ取ったりする事件がしばしば起きます。アップルを創業したスティーブ・ジョブズは、後から雇ったペプシコーラ出身のジョン・スカリーたちに10年以上も追い出されました。
やなせたかしは、天才たちに声をかけられて知らない仕事の世界に飛び込みます。そして成果をあげます。が、声をかけてくれた天才たちを出し抜こうとしたり、仕事をぶんどったり、ということはいっさいしていません。
その姿勢には、彼の中のデザイナー体質が大きく関わっている、と思います。デザイナーはクライアントからの発注があって初めて仕事が発生します。どんなに素晴らしいデザインを施しても、主人公ではない。主人公は製品や作品であり、その製品の経営者です。
やなせたかしは、アニメ映画やテレビドラマ、舞台、コンサートなどさまざまな仕事の現場で「デザイナー」として仕事をしてきました。人と作品とのインターフェースとなるデザインの仕事は、最も重要な領域です。ただし、やなせたかしはデザイナーの立場を超えてまで頼まれた作品づくりの中枢に行こうとは微塵も思っていない。
だから、天才たちは安心してやなせたかしに声をかけることができたのでしょう。やなせさんならば、安心してまかせられる、と。
文/柳瀬博一 写真/shutterstock