〈後編〉

家父長制推しの家

奈良県生まれ埼玉県育ちの井田奈穂さんは、新聞社に勤める父親と、短大を卒業したばかりで専業主婦になった母親の間に、3人姉妹の次女として生まれた。

昭和後期の父親の多くがそうであったように、井田さんの父親も仕事が忙しく、ほとんど家にいなかった。

そのせいか、家事・育児にはまったくと言っていいほど関わらなかったが、何かを決めるときだけは“家長”として判断を下していた。

今回、自身の経験を語ってくれた井田奈穂さん
今回、自身の経験を語ってくれた井田奈穂さん
すべての画像を見る

「私たち姉妹は、ほぼほぼ母に育てられた感じです。母はとても学校の成績がよかったのですが、祖母から『勉強ができる女は可愛がってもらわれへん』と言われて育ち、まったく本人の希望と違う短大の家政科に入学させられて、卒業と同時に親が決めた人と結婚させられました。

一方、母の兄は東京の四大へ進学。自己実現が叶わずに、母はものすごく苦しんだみたいです」

その反動からか、幼い頃から井田さんたち姉妹に対しては、母親は相反する2つのことを押しつけた。

「資格を取ってバリバリ働いて、社会で活躍する女性になりなさい」と、「良妻賢母になりなさい」という2つだ。

写真はイメージです 写真/Shutterstock
写真はイメージです 写真/Shutterstock

「母が親から押し付けられた良妻賢母像が『家父長制』と名のつくものに根ざしていることに、ものすごく後になって気がつきました。

母は、子どもを3人産んでから自立を目指し、教職につきましたが、父が家事・育児を一切分担しなかったため挫折し、退職せざるを得ませんでした。

私たちには、母親自身がなれなかった『社会で活躍する女性』になってもらいたかったけれど、幼い頃から親に刷り込まれてきた『いい娘像』『良妻賢母像』も捨てられなかったのです。

教育ママになり、塾の帰りに尾行し、私が男の子と話していると『不純異性交遊だ!』と言って、塾の先生や近所の人にまで監視を頼むなど、とにかく過干渉でした」