1章 白い漁船 前編
気仙沼のスーパーヒーローは漁師
気仙沼のスーパーヒーローは誰ですか?
街頭インタビューでそう問われたなら、地元で暮らす人々はなんと答えるのだろう。
ヒーローといえば、やはりスポーツ界から選ばれるのが王道か。
気仙沼出身のアスリートは、2015年のラグビーワールドカップで南アフリカを撃破した日本代表のプロップ、畠山健介が有名だ。2012年のロンドンオリンピック、フェンシング・フルーレ団体で銀メダルを獲得した千田健太もいる。
年配の方ならば、秀ノ山 雷五郎という江戸時代に活躍した横綱力士の名前をあげる人がいるかもしれない。どうしても相撲の世界に身を投じたくて気仙沼から江戸に出て、修練の果てに第9代横綱にまでなった豪の者である。
気仙沼のスーパーヒーローは誰ですか?
気仙沼で生まれ気仙沼で育った、ふたりの女性の答えは漁師だ。
斉藤和枝と小野寺紀子。斉藤の家業である「斉吉商店」は、他県から来た漁船が気仙沼で仕事をするため、乗組員の組織をしたり、船員の宿や食事の手配まで、よろず仕事全般を請け負う廻船問屋だった。
「オノデラコーポレーション」は、気仙沼を母港とする漁船が使う餌を輸入販売したり、漁撈資材の販売を行っている。
小さな頃から海の男たちと深いかかわりを持つ彼女たちは、日常に漁師がいる生活が普通だった。漁師たちの言葉遣いは荒かったけれど、それもまた日常。
なにを言っているのかわからない「別の言葉を使う人たち」も多かった。
気仙沼には、日本全国から優秀な漁師が集まってきており、それぞれが使うお国言葉もまたバラバラだったからだ。
それでも、まだ子どもだった彼女たちが、漁師たちを怖いと思ったことはない。見た目は怖いが心根 はやさしく、獲れたての魚をわざわざお土産に持ってきてくれてドンと置いて帰っていくような、粋な人たちだったからだ。
斉藤は、自分たち夫婦の代で、「斉吉商店」を廻船問屋から気仙沼の海の恵みをいかした加工食品メーカーへと主軸を移すことに挑戦する。
試行錯誤を重ねた「金のさんま」は人気商品のひとつだ。
小野寺は親族とともに「オノデラコーポレーション」を発展させてコーヒー事業部を立ち上げた。気仙沼ではじめてカフェラテを提供した「アンカーコーヒー」である。
海とのかかわりも以前と変わらず深く、彼女が担当しているオーシャン事業部では、水産物の輸出入業を営んでいる。
大人になった彼女たちは、漁師という存在がいかに気仙沼に不可欠なものか、より明確に理解するようになっていく。
自分たちがこの町で働き海とかかわることで、気仙沼の経済が漁師たちによってまわっていることを再認識したからだ。
気仙沼港に水揚げされただけでは、魚は流通しない。
大前提として買い人がいて、そのうえで、魚を入れる発泡スチロールの箱を作る人、魚の鮮度を保つ氷を作る人、県外へ鮮度の高いまま出荷・運搬するトラックのドライバーもいる。
さらに、気仙沼港には造船所も完備されていて、船を造る人や修理をする人もいる。漁師たちの食と休息を支える飲食業に従事する人だっている。
だからこそ、斉藤と小野寺にとってのスーパーヒーローは漁師だった。
新幹線内での熱い会話がすべての始まり
2012年秋のこと。岩手県のJR一ノ関駅から長野県へと向かう新幹線の中で、ふたりはもうもうと盛り上がっていた。
「もうもうと」とは、気仙沼弁というよりもオリジナルの〝和枝語〟らしいのだが、標準語に訳すのなら「めらめらと」といったニュアンス。
令和の女子高生が推しているアイドルについて熱く激しく語りあうように、もしも、気仙沼のスーパーヒーローのカレンダーを作ったのなら、どんな写真がいいべがと、ふたりだけの世界に入り込んでいた。
「写真集で『佐川男子』が話題になってるっちゃ? ああいうのがいいね!」
「そうそうそうそう。あと、沖縄の消防士の人のカレンダーとか!」
「そうそうそうそう。漁師、筋肉、筋肉、漁師、みたいなね!」
「カツオをさ、3本ぐらい抱えてグッとやったら二の腕の筋肉とか、あの人たちはすごいから!」
「で、どうせ作るんだったら、世界に通用するカレンダーね!」
「んだね! 世界だね!」
かっこいい漁師のカレンダーを作ることで、漁師になりたい若い人が気仙沼に来るかもしれない。そんなことも真剣に話し合った。
あまりにも盛り上がってしまったため、所要時間3時間ほどがあっという間にすぎ去った。
ふと気がつくと雪をかぶった長野県の山々が目に映る。そもそも、彼女たちが長野県を訪れた理由は、もうもうと盛り上がるためではない。
震災後の自分たちの仕事の参考になるかもしれないと、長野県で成功を収めていたジャムなどの加工食品会社を訪ねて、なにかしらの学びを得ようと思っていたのだ。移動が発想をうんだのか、たまたまその時だったのか。
この日、『気仙沼漁師カレンダー』の素 が誕生する。
2024年2月、「気仙沼つばき会」3代目会長でもある斉藤が振り返ったのは、もうもうと小野寺と盛り上がった話の裏側に詰まっていた想いについてだった。
「気仙沼の漁師さんをかっこいいと感じるのは、なにも私たち女性に限ったことではないんです。男性であるうちの社長も言っていますから。『サンマ船の水揚げって、すごくリズミカルで、まるでEXILEのダンスのようだ』って。でも、私たちは漁師さんの魅力を知っているけれど、全国の多くの方はご存じないですよね。なんだったら、地元の気仙沼の人だって知らないのかもしれない。だったら、私たちが思う漁師さんのかっこよさを内外に広く伝えたいと強く思ったんです」
気仙沼の女性ふたりが、漁師をかっこいいと感じるのはミーハー的要素もある。けれど、彼女たちが推す漁師のかっこよさには奥行きがある。
震災2日後の真っ白い漁船
あの時がそうだった。
2011年3月11日、未曽有の被害をもたらした東日本大震災。
「私、震災から2日後に海の近くにあった斉吉商店の工場のあった場所へ行ってみたんです。避難していた叔父の家から、震災前なら1時間もかからない道のりを半日をかけて。高台から見てダメだというのはわかっていたんですけど、それでもどうしても自分の目でたしかめたかったんです。
でもやっぱり、工場は全部流されていて基礎しか残っていませんでした。泣きました。散々泣いて、でも、しょうがないって自分をどうにか納得させて帰ろうとした時、真っ黒に焦げてしまった船が並ぶ港に、真っ白い船が帰ってきてくれたんですよ。数日前に気仙沼から出港した、無傷の真っ白い漁船でした」
見上げると真っ青な空が広がっていた。
なのに、震災前はあれほど美しかった気仙沼の海には焼け焦げた黒い船しかいなかった。
真っ黒の世界に、ふっと現れた真っ白な漁船。
見た目には無傷だが、その漁船の帰港はイチかバチかの賭けでもあった。目視がきかない海の底には津波に流された家などが沈んでおり、船底を傷つけて損壊するリスクがあったからだ。
それでも、漁師たちは気仙沼に戻ることを選ぶ。出港時に積み込んだ水や食料を全部おろして、少しでも気仙沼の人々の役に立てたならと。
斉藤はふたたびの涙を流した。だが、2度目の涙は悲しい色をしていなかった。
別の場所で、小野寺も黒い世界に舞い戻ってくれた白い船を見つめている。
「震災の夜、私は魚市場の屋上で一晩をすごしました。あの夜、津波で流出してしまった重油に火がついて、気仙沼湾は一面の火の海で。そんな夜が明けて、屋上から町を見渡せるようになったんですけど、終わったと思いました。魚市場のまわりの工場はすべて流されていて、気仙沼の経済の90パーセントが終わったなって。気仙沼は漁業が町の営みをまわしていましたから。
でも、それから数日後のことです。和枝さんも見た白い近海マグロ船が、気仙沼に帰ってきてくれたんですよ。真っ白で、とっても美しくて。はじめてでした。子どもの頃から何千回と見てきたから、マグロ船の白い色をきれいだなんて思ったこともなかったけど、本当にきれいだった……。
その時〝あぁ、私たちには沖で操業しているマグロ船がいてくれるんだ!〟って、ふっと心に光がさすように思えたんです。マグロ船は一隻で何億も稼ぐ海の上の工場のようなもの。
たとえ、いま目の前に広がっている気仙沼の経済の90パーセントが終わってしまったとしても、沖には経済をうみだしてくれる漁師さんたちがいてくれる。だったら、まだまだ気仙沼は大丈夫だ。そう信じることができて、よし!って」
長野県へ向かう新幹線の車内で、もうもうとふたりで盛り上がった翌日。
斉藤は、「金のさんま」などの自社商品で仕事をともにしていた東京の広告制作会社関係者に直接会いに行く。長野県へ向かった時のような気仙沼弁全開ではなかったが、それでも、小野寺と自分の想いを、東京のその人に語り尽くした。
「ぜひ、やりましょう!」
立ち上がって固い握手で応えてくれたのは、株式会社サン・アドのプロデューサー、坂東美和子であった。