1章 白い漁船 後編
2012年、震災の爪痕が残る中で撮影はスタート
けれど、その前途は多難であった。
まず、予算が足りない。広告制作会社であるサン・アドを主語とするのなら、通常の予算からすると圧倒的に足りなかった。
だが、クライアントである「気仙沼つばき会」を主語とするのなら、家も仕事もすべてを津波で流されていたわけで、潤沢な予算などあるはずもない。
プロデューサーの坂東美和子は発想を転換する。
通常の撮影プロジェクトであれば、キャスティングに必ず組み込む「コーディネイター」「ロケバスとドライバー」「スタイリスト」「ヘア&メイク」を座組みから外す。
撮影場所の候補地やモデルを紹介しナビゲートする「コーディネイター」は、この地で生まれ育った「気仙沼つばき会」に担当してもらった。
むしろ、彼女たち以上の「コーディネイター」など、このプロジェクトには存在しなかった。移動に必要な「ロケバスとドライバー」も「気仙沼つばき会」の誰かが車を出してくれたし、撮影チームは藤井保のアシスタントがワーゲンバスを自走してくれた。
漁師という味のある被写体だ。「スタイリスト」「ヘア&メイク」も必要ない。
予算のめどはたったが、〝ないもの問題〟は続いていく。
ロケハンのために気仙沼へ赴いた時のことだ。通信電波がない。携帯電話は通じるところとそうでないところが点在していた。いまのようにWi-Fiもないから、インターネットが使えない。
パソコンはノートブックタイプを持ち込めばよかったが、宿泊施設などにプリンターがない。津波で流されたからだ。
「香盤 表」と呼ばれる撮影予定表は、通常はパソコンで入力してプリントアウトしたものを各スタッフに手渡すのだが、今回はすべてが手書きとなる。
ないないづくしだからこそ、試されるのは本当の自分の力だった。だったら、できることをしよう。
新人の頃のように、がむしゃらに、全力で。坂東は既に充分なキャリアを重ねており、会社の重要案件を任されるほどのベテランであった。そんな自分が新人の頃のように初心に返り、それを楽しめているのが不思議だった。
不思議なことがもうひとつ。
それは、「気仙沼つばき会」と、その家族や仲間たちから感じることだった。
あれほどのことがあったのに、みんなが笑っている。
東京での坂東は「声が大きい!」と、たしなめられることがよくあったが、気仙沼では静かなほうだった。
彼女以上に、みんなが大きな声でしゃべり、大きな笑顔で笑う気仙沼の人たち。深く傷ついたはずなのに、なぜこんなにもパワフルなのだろうと不思議だった。
気仙沼から東京に戻ると元気になっている自分の変化にも気づく。苦手なはずのサンマの肝が、気仙沼の人たちが七輪で焼いてくれたものだけはおいしかったなと思い出すと少し口元がゆるむのだった。
気仙沼と東京は、電車の乗り継ぎがうまくいっても最短で3時間25分。決して近くはない。
距離ではなく坂東の意識として、気仙沼という町が以前よりもぐっと近づいていた。
坂東には、いまでも忘れられない光景がある。
アシスタントプロデューサーの荒木拓也が、「気仙沼つばき会」の斉藤和枝とその家族となにげない会話を交わしていた時のこと。いつものように、みんなが大きな声でしゃべり、笑っていた。ふとしたタイミングで大学生当時の記憶が蘇ったのか、荒木がこんなことを言った。
「そういえば僕、このあたりには何回かボランティアで来たことがあります。あの頃は、サンマが散らばっていて大変でしたよね」
その瞬間だった。笑い声が一瞬で消える。それと同時に、斉藤だけでなく家族全員が居住まいを正した。正座をした斉藤家一同は、荒木に向かって深々と頭を垂れるとこう言った。
「その節は本当にありがとうございました。ボランティアの方々が来てくださらなかったら、こんなに早く気仙沼で、いまのように暮らせるようにはなりませんでした」
斉藤は、その時はじめて荒木がボランティアで気仙沼に来てくれていたことを知ったのだ。
坂東は斉藤家の誠実な姿に、こみ上げるものをこらえて、ふたたび決意する。私にできることをしよう。新人の頃のように、がむしゃらに、全力で。そして、世界に届くカレンダーをこの人たちといっしょに作っていこう。
撮影の日々は始まっていた。2012年の冬のことである。
撮影日の詳細な記録は残っていない。通常はパソコンに香盤表のデータが残っているものだが、現地で手書きしコピーして渡していたからだ。怒涛の日々とともに手書きの香盤表はどこかへ消えてしまった。
記録には残っていないが、坂東の記憶には残っている。
都合2度。サン・アドチーム4人と写真家・藤井保による『気仙沼漁師カレンダー』のクリエイティブチームは、気仙沼の四季を撮影しようと、東京からの旅を7度繰り返した。
プロデューサーの寝言
「すみません、すみません、すみません!」
謝罪の声が響いたのは早朝5時だった。
船上などの撮影現場ではない。気仙沼の唐桑地区に位置する民宿「唐桑御殿つなかん」でのこと。「唐桑御殿つなかん」は、名物女将の菅野一代が切り盛りしており、菅野もまた「気仙沼つばき会」のメンバーだった。静かな朝に響いた声は、プロデューサー・坂東美和子の寝言である。
「坂東さん、坂東さん、どうしたんですか?」
クリエイティブディレクターの笠原千昌が、謝りながらうなされている坂東に気づいて声をかける。
「すみません!」
坂東がもう一度叫ぶと自分の声でようやく目を覚ました。女性同士で同部屋だった笠原が笑っている。襖1枚を隔てた隣りの部屋では、アートディレクターの吉瀬浩司も笑いをこらえている様子だ。
「どうしたんですか?」
笠原がもう一度聞く。坂東は、ようやく現実の世界に戻れたことに気づき、ほっとして、胸をなでおろした。夢のなかで藤井保に怒鳴られていたのだ。藤井の怒りの理由は、香盤表が真っ白で、その日の撮影予定がなにも決まっていなかったから。
夢で本当によかった。坂東はもう一度、胸をなでおろした。
2012年11月から、撮影が始まっていた。できることをしよう。心のうちでそう誓った坂東ではあったが、漁師の撮影は、普段の仕事とはあまりにも勝手が違っていた。
たとえば、撮影前日の夜までに、どうにかして香盤表が作れたとする。ところが、天候判断などの理由で、前日に組んでいた予定が変更となってしまう。
天候判断で撮影ができなかった漁師をAさんとすると、Aさんの次の候補日には既にBさんを撮影する予定だ。だが、Aさんはこの日のこの時間しか無理だという。Bさんに謝って別の候補日を調整してもらう。けれど、Bさんの次の候補日には、既にCさんの予定がある……そんな具合。
まるで、ピースが欠けていて絶対に完成しないパズルを必死で完成させようとしているかのような作業。撮影の直前まで、何度も書き替わる香盤表。夢だけでなく現実の世界でも、坂東は何度も藤井に頭を下げた。
天候判断における勝手の違いもあった。
クリエイティブチームからすると、多少の天候不順ならば撮影したいのが本音だった。
しかし、海のことは漁師の判断にすべてが委ねられる。とくに船頭と呼ばれる人たちの判断は絶対だった。船頭とは、漁撈長とも呼ばれる船内の最高責任者であり、漁師としての腕のたしかさと仲間を束ねる胆力がなければ務まらない仕事だ。〝頭〟であり〝長〟。漁師の世界のトップである。
正直な気持ちでいえば、坂東は彼らの絶対を当初から信頼していたわけではなかった。天候不順により順延となったとしても(今日は撮影できたのでは?)と内心で思っていたこともあった。けれど、坂東の予想は、ことごとく外れる。船頭の天候判断は常に的確だったのだ。いかに自分が海の世界の素人であるかということに気づかされた。
妥協を知らない写真家が撮った1枚
いっぽうで、クリエイティブチームにも〝頭〟や〝長〟というトップが存在する。今回のプロジェクトでいえば、写真家がその任を担っていた。
藤井保は妥協を知らない写真家である。
プロデューサーである自分にも、かかわるすべてのスタッフにも厳しい人。
だからこそ、夢のなかでまで怒鳴られたりもしたのだが、坂東は知っていた。この当代きっての写真家は自分にこそ、もっとも厳しい作家であるということを。
最初のロケハンから実際の撮影が始まっても、気がつくと藤井は、気仙沼のどこかを歩いていた。道なき道を行き、山を登り、崖をくだっていた。
撮影が始まっても、もっともベストであろう場所を求めてロケハンを続けていたのだ。気仙沼の藤井保は、藤井保であり続けた。
「気仙沼つばき会」の斉藤和枝が、カレンダー作りのはじまりの頃と藤井との日々を振り返る。
「藤井さんは、シャッターを押している時間よりも、私たちの話を聞いてくれる時間のほうが長かったんじゃないかっていうぐらい、耳を傾け続けてくれました。なぜ私たちが漁師カレンダーを作りたいのか、漁師さんのいったいどこにそこまでの魅力を感じているのか、気仙沼という町で自分たちが好きなところも聞いてくださって。サン・アドさんもそうでした。
震災をきっかけにうちの商品である『金のさんま』のパッケージのリニューアルなどをお願いしたことがおつきあいの始まりなんですけど、なぜこの商品を作ったのか、この商品に込めた想いはなんなのかって、ずうっと寄り添って話を聞いてくださったんですよ。
だからこそ、『気仙沼漁師カレンダー』を(小野寺)紀子さんと思い付いた時、真っ先に坂東さんにお願いしたんです。
だけど、あの頃の私たちは、クリエイティブのなんたるかをまったくわかっていなかった。だって、ただの田舎のおばちゃんですから。クリエイティブってなんだべ、でしたから。
10年以上たったいまだって、クリエイティブのことなんてわかるはずもないんですけど、いまよりも、もっともっとわかっていなかったのだと思います」
藤井による気仙沼での撮影は続いていた。クリエイティブチームの頭として、2、3時間の短い睡眠だろうが一切の文句を言わず、シャッターを切り続けた。
そして、その瞬間が訪れる。
プロデューサーの坂東は藤井の被写体に対峙 する集中力が、より高まっているのを感じていた。被写体といっても漁師ではない。
秀ノ山雷五郎の像である。相撲界で第9代横綱という最高位までのぼり詰めた男であり、気仙沼のスーパーヒーローでもある。その業績を讃えた銅像は、東日本大震災のあの津波にも流されなかった。
藤井は、この像もまた気仙沼の象徴であり、カレンダーの一枚にふさわしいと直感する。
その瞬間、気仙沼の天候が写真家の味方をした。
美しい白色の絵の具を奇跡的な濃度バランスで薄めたような霧。これ以上濃い霧だと力士像が見えないし、逆にこれよりも薄い霧だと味わいも薄い。そんな絶妙な霧の中に身長164センチと江戸時代でも小兵であった秀ノ山雷五郎が、右手をすっと海に向かって伸ばしている。
後日、東京に戻った藤井は、彼の代名詞と称される魔法を施したかのようなプリントにより、会心の一枚に仕上げる。
けれど、その写真は『気仙沼漁師カレンダー2014』に採用されることはなかった。