契約金に上限がついた初めてのドラフト会議
「僕の人生には何度か“逆転”が起こっているんです。まったく勉強ができんかったときから、慶應大に入れたのも逆転でした。そして、中日時代にも逆転を経験しとるんですよ。象徴的なのは堀内(恒夫)から打った逆転サヨナラ満塁ホームラン。その一方で、中日とはある約束をしとったんですが、のちにそれが反故にされるわけです。これが、僕の人生に欠かすことができない出会いを生むことになるんですわ」
大学3年からアメリカでの野球留学を志望し、ドジャース入り手前まで話が進んだ広野だったが、4年の冬に父の大反対もあり断念する。
それと同時に1965(昭和40)年秋には、広野のアメリカ志向を知っていながらも、中日はドラフト3位で指名していた。渡米断念の報を聞きつけた中日は、広野の実家のある徳島にすぐさま飛んできた。
徳島市内(栄町)にある料亭「今年竹」は、徳島市内の政財界人にとっての要所であった。会社経営を行っていた広野の父にとっても馴染み深い場所であろう。
1966(昭和41)年1月10日、「今年竹」では広野の父親と母親、そして広野本人が18時に到着予定の中日関係者を待ち構えていた。
次兄が7年前に阪急へ入団したとはいえ、息子を指名してくれた球団との顔合わせに、両親は緊張の様子を隠せない。
しかし、広野は緊張の一方で、なんとか契約金を高くしたいという思いを抱えていた。
広野がカネにこだわったのは、理由がある。
そもそも、広野が1期生となり、1965年に始まったプロ野球ドラフト会議の目的は「戦力の均衡」「契約金の高騰防止」だった。
ドラフト以前は各球団の自由競争であり、有力新人を獲得するために契約金が跳ね上がっていたのだ。
それでは金満球団に戦力が集中するということでドラフトが始まり、新人選手については契約金1000万円、年俸180万円という上限が設けられた。
同年代(統計がとられ始めた1968年)の大卒初任給は月給3万600円である。
そこから見れば、かなり多額の給料のように思えるが、前年は慶應大出身で広野の1つ先輩の渡辺泰輔が当時のプロ野球史上最高額の契約金5000万円を受け取っている。
大人の事情で大幅減額された広野ら下の世代にとって、受け取れたはずの契約金を要求するのは至極当然のことだ。
「お客さまがいらっしゃいました」
仲居が襖を開けると中日球団代表、西沢道夫監督ら3人がスーツ姿で立っていた。
軽い挨拶を終えて、向き合うと西沢監督は、「広野君を指名させていただきました。ぜひ、うちに任せてもらえませんか」と頭を下げた。