「こいつは、アメリカのドジャースに入れたかもしれない男ですよ」

さて、ここからが交渉の始まりである。広野はタフネゴシエーターとして期待していた父親の第一声を注視した。

しかし、父は「息子をよろしくお願いします」と一言発しただけで、母も同じく低頭平身の様子である。

「いや、親父、中日さんは、まだ僕への指名権を獲得しただけで、もう少し契約金についての交渉をしたほうがいいんじゃ……」

小声で耳打ちする息子を父が制する。

「バカモン。中日さんがせっかく指名してくれたのに、お前、なにを失礼なことを言うか。中日さん、ぜひよろしくお願いします」

父に押された広野は黙るしかなかった。こうして両者の挨拶が終わったのだが、広野の胸中は複雑だった。

写真はイメージです
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へりくだるばかりの父では話にならないと割って入ったのが長兄の孜(つとむ)である。孜は慶應大を卒業したのち、八幡製鉄に入社していた。

さらに、当時部長クラスにまで登りつめていたバリバリのビジネスマンであり、カネ勘定の交渉は慣れたものだった。

身長も180センチ越えの大男。大学卒業から、7年経っていたが彼の肉体は慶應大野球部出身という名残を残していた。

翌日、大学に戻った広野は、東京の支社にいた孜に話をすると、早速兄は担当の田村スカウトと会い、交渉を行った。

「田村さん、親父はこういっていますけど、まだ契約はさせられません。こいつは、アメリカのドジャースに入れたかもしれない男ですよ。まさか、契約金はこのままの条件というわけにはいかないでしょう?」

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「いやいや、お兄さん、こればっかりはどうにもなりません。12球団が守っている中で、うちが金額を破るわけにはいきませんよ」

田村が慌てて答えるものの、長兄はなおも食い下がる。

「前の年は5000万円の契約金をもらった選手もいるんでしょう。5分の1はおかしいじゃないですか。何かあるでしょう」

答えに窮した田村は、苦虫を潰したような表情で頭をかくばかり。結局、球団に持ち帰り、翌日に答えを出す約束をした。翌日、田村は条件の内容を報告した。

「お金のことは勘弁してください。その代わり、広野さんが来てくれたら、トレードには出しません。どんな怪我をしても、すぐに引退しても、生涯中日グループが面倒を見ます」

中日は現役時代だけではなく、広野のセカンドキャリアも保障するというのだ。これを広野は呑み、1月21日に契約が成立。広野はドラフト1期生として中日に入団したのだ。

しかし、この約束は早々に反故にされることをこの時の広野は知る由もない――。

文/沼澤典史 写真/Shutterstock

『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)
沼澤 典史 (著)
『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)
2024/10/23
1,650円(税込)
256ページ
ISBN: 978-4594098742

幻のメジャー契約、ドラフト1期生、黒い霧事件、球界再編騒動…etc.
かくも波乱万丈な野球人生があるのか?
 
板東英二、堀内恒夫、稲尾和久、川上哲治、王貞治、長嶋茂雄、星野仙一など、日本球界に名を刻んだ猛者たちと現役時代に対峙。強打の左打者として未だ破られぬ「逆転サヨナラ満塁ホームラン2本」の日本記録を樹立。第1回ドラフト、黒い霧事件、長嶋茂雄引退試合などを直接体験。現役引退後、新聞記者を経て指導者に転じ、落合博満、清原和博、イチローなどと交わり、フロントに転身すると、球界再編騒動で新球団の創設に尽力。100年にわたる日本球界の“裏の裏”を知る男が最初で最後の告白――。

<内容>
広野功は1943(昭和18)年生まれの徳島県出身。徳島商業では甲子園に春夏連続出場を果たし、慶應義塾大学に進学。大学時代は長嶋茂雄の通算本塁打記録(当時)に並ぶ活躍を見せ、第1回のドラフトで中日に入団。中日、西鉄、巨人の3球団を渡り歩いた。現役引退後は新聞記者となり中日球団の組閣にも陰ながら貢献する。その後は、コーチ、二軍監督、監督代行、編成部長などを歴任。約35年のプロ球界人生でさまざまな大事件や傑物と遭遇する。広野がつぶさに見た球界の裏の裏を余すことなく告白する! 

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