「ウソでしょう?」

2年前の広野は、アメリカのメジャーリーグでのプレーを夢見る大学生だった。だが、ゴリゴリ反米の父の剣幕に折れて渡米を諦め、ならばせめて好条件でプロ入りしたいと考えた。

そんな広野の事情などお構いなしに、まるで広野の大学卒業年に合わせるように、プロ野球界は、ドラフト制度を導入。

前年までの高騰する契約金・年俸を抑制すべく制度を導入したと自分たちの事情を言い立てて、広野が希望するカネは払えないと突っぱねている。

「お金を払わない代わりに、中日球団は『うちはお前を一生面倒見る』と言ったんですよ。その条件があったからこそ、僕は中日入りしとるわけですよ。なのに、入団して2年目のオフに、『お前、西鉄に行ってくれ』と社長が言うんですから、それはないでしょう」

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選手にとって、球団社長は雲の上の存在である。徳商野球部、慶應野球部で礼儀作法を叩き込まれて生きてきた広野にとって、ぞんざいな言葉遣いはありえない相手だ。それでも広野の口からは、考えるより先に言葉が出た。

「ウソでしょう?」

驚愕する広野の顔を見て、小山はトレードの経緯を告げた。

「うちからではなく、西鉄が広野を指名してきた。もちろんウチは広野を出すわけにはいかないから、いろんな選手を候補に出した。内緒だが、江藤慎一もその中に入っていた。だけど、向こうは君を指名してきた。巨人一強を防ぐためにウチもどうしても勝てる投手がほしい。受けてくれ」

小山の言葉は、おそらく大人のずるさである。

1937(昭和12)年生まれの江藤慎一は不動の四番で、1967(昭和42)年は34本塁打、2割7分6厘の成績を残している。

対する広野は1943(昭和18)年生まれの本塁打19本で、2割3分3厘だ。残りの稼働可能な年数を考えても、広野の代わりに江藤を出す選択肢はないだろう。

しかし、あまりに急な出来事に、広野は心の整理がつかない。

「3日間、考える時間をください」

涙を流しながら懇願した。

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広野はその足で当時世話になっており、名古屋の親代わりでもあった梅原武夫のもとへ相談に向かった。

梅原は、毎日新聞で毎日オリオンズの創設に関わるなどプロ野球界を知る人物である。

当時は毎日名古屋会館の「ホテルニューナゴヤ」の総支配人だった。

梅原は若き中日選手である広野を可愛いがり、同じく懇意にしていたプロゴルファーの内田繁も含めて、度々ホテルニューナゴヤで食事をするほどの仲だったのである。