自分という箱から一歩外に出るために

―― 冒頭、母親が棺に入れられて銀色の壁の向こうに行ってしまう場面の描写をはじめ、この物語ではさまざまな「箱」が重要なモチーフになっていますよね。ひとりひとりがそれぞれに隔てられている、あるいは閉じ込められているということがひとつのテーマになっている。

 記憶というのは体の中に閉じ込められているともいえますよね。簡単に人に渡せないものであるし、肉体的な苦痛や快感もその人の体の中にしかないと考えると、「自分」ってひとつの箱なんだなと思って。その閉塞感というか、そうした世界の前提に気づく瞬間みたいなものを書きたかった。

 成熟とは何かと問われたら、きっといろんな答えがあると思うんです。例えば、ひとりで物事を達成できるようになる、というのはわかりやすく成熟を示すものですよね。でも僕自身は、大切な誰かと自分という箱の中にあるものを交換するということも成熟のひとつなんじゃないかなと考えています。それが「世界と交わる」ということの最小単位というか。自分という箱から一歩外に出る契機として、他者との交換ということがあるんじゃないかと、この小説を書きながら気づきました。

―― 新潮新人賞を受賞したデビュー作「わからないままで」は、固有名詞が一切出てこず、「男」「父親」といった三人称で視点を章ごとに移しながら綴っていく独特のスタイルに注目が集まりました。今作で初めて「僕」という一人称を採用して視点をきっちり固定していますよね。「僕」という箱を意識させるつくりというか。

 実は「僕」がこれまでずっと恥ずかしくて……(苦笑)。小説を書く上で、男性一人称はものすごく高いハードルだったんです。でも「僕」という、自分に近しい一人称でしかあらわせない視点の限界や境界線みたいなものは、この小説にとってやっぱりどうしても必要だった。「僕」や「私」って狭さを示すものだから。「天は」という三人称じゃ意味をなさない、箱の描写がたくさんあったんだろうなと。

 もともと僕自身は新潮クレスト・ブックスがすごく好きで、いろんな世界の小説を読んでいて、それらを通して自分の身に起きたことを解体するようにして知ろうとしていたんです。そうした読書のやり方の延長として、ふと自分で書いてみるということに思い至って。デビュー作の「わからないままで」は三人称で視点をどんどん移していくという、わりと海外だとおなじみのスタイルの小説なんですが、いま思えばそういう書き方の中に自分の人生を垣間 ( かいま ) 見ようとしていた。

 でも『あのころの僕は』は、逆に自分の体験を足がかりにして世界のことを見つめようと試みたものなんです。自分の経験した感情の動きとか、ある限定された状況での論理みたいなものを世の中に起きていることに適用するというか。自分という箱の中身を検分する作業から、箱の外の世界を知ろうとする試みへと意識が変わってきたと思います。

―― ちなみに小池さんご自身は現在、作家と編集者の二足のわらじを履いてらっしゃることでも知られていますが、脳の使い方が変わってくる部分はありますか?

 そうですね……たぶん雑誌の編集者って、自分のカラーをどんどん出してやるぜ、みたいな青臭いところからキャリアが始まって、他の人たちと一緒にものをつくっていくうちに、やっぱり読者にとってわかりやすいのが一番だなということに気づいていく過程なんだと思うんです。一方、作家はある種の青臭さを持ち続ける存在だともいえる。僕自身は編集者として八年目ぐらいのときに小説を書き始めたんですけど、ちょっと客観性を持てるようになった頃合いだったので、おかげで自尊心と仕事上のモードの良い補い合いが起きているんじゃないかなという気がします。

 とはいえ、書く上での悩みは尽きないです。中盤、終盤あたりになってくると「こんなもの何が面白いんだ!」という絶望の瞬間が必ず訪れるんですよ(笑)。これを書き切ったところで誰一人喜ばないのに何をしているんだろう、と。それ自体は気の持ちようでやり過ごすしかないんですけど、凝縮された鋭さみたいなものを要所要所でつくらないと、特に今の時代の読者に対して接点を得られない部分があるだろうなと思っています。

―― 一読者としては、小池さんの小説の透徹した文章が湛える清潔さ、誠実さはこの時代にあってすごく得難いと感じるというか。ナレーションのないドキュメンタリー映画を見ているような印象も受けます。

 そうおっしゃっていただけるととてもありがたいのですが……。たしかに、小説の中で起きている出来事や景色に直接言葉で何かを付け足すということはしてないかも。「あのころ」を振り返っている現在地の天にしても、はっきりとした後悔に囚われているわけでもないし、願望をそこに含ませようとしているわけでもない。ただ真っすぐに過去を見つめているだけなんだろうなと。

「思い出す」ということって、たぶん誰しもできる、本当に率直で素朴な、自分自身を支えるための方法だと思うんです。苦境に立っているときに美しい思い出が支えてくれることがあるかもしれないし、過去にほとんど傷しかないという人にだって、それでも現在まで生き抜いているんだという事実を思い出は示してくれる。きっと天にとっては、マジカルとしか言い様のないほどの何かを得ていく過程だったんじゃないかなという気がします。

あのころの僕は
小池 水音
あのころの僕は
2024年9月5日発売
1,760円(税込)
四六判/160ページ
ISBN: 978-4-08-771880-5

自分でも分からなかったあの頃の感情に、この小説は居場所を与えてくれる。
私たちは、切実に生きていた。
西加奈子 (作家)

停まった時間の内に、再び歩き始める生の兆しをみた。
古川真人 (作家)

いつかきっと、いろんなことがわかるようになる。
母を病で失った五歳の「僕」は、いくつかの親戚の家を行き来しながら幼稚園に通っていた。大人たちが差し出す優しさをからだいっぱいに詰め込み、抱えきれずにいた日々。そんなとき目の前に現れたのは、イギリスからやってきた転入生のさりかちゃんだった。自分と同じように、他者の関心と親切を抱えきれずにいる彼女と仲良くなった「僕」だったが、大人たち曰くこれが「初恋」というものらしく……。
コンビーフのサンドイッチ、ひとりぼっちのハロウィン、ひみつの約束、悲しいバレンタインデー。
降り積もった記憶をたどり、いまに続くかつての瞬間に手を伸ばす。
第45回野間文芸新人賞候補作となった『息』に続く、注目の若手による最新中編。

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