文字どおり日本を代表する、世界トップクラスのプレーヤーとなった鳥海連志(写真:長田洋平/アフロスポーツ)
文字どおり日本を代表する、世界トップクラスのプレーヤーとなった鳥海連志(写真:長田洋平/アフロスポーツ)
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全国デビューをした2014年、突如目の前に現れた日本代表への道

パラスポーツの取材を続けてきた筆者が「鳥海連志」を初めて目にしたのは、彼が高校1年生で全国デビューした2014年5月の日本選手権だった。その前年のアジアユースパラゲームズで銀メダルを獲得するなど、関係者の間では“将来有望な若手”の一人とされていたが、全国的にはまだ無名と言ってよかった。しかし、ひと目見て彼の俊敏なプレーにまさに“くぎ付け”になった。それは東京2020パラリンピックで鳥海のプレーに魅了された多くの人々と同じ衝撃だったに違いない。

[2014年日本選手権] 15歳で、初の全国の舞台を体験。当時から動きの俊敏さは抜群だった(写真:X-1)
[2014年日本選手権] 15歳で、初の全国の舞台を体験。当時から動きの俊敏さは抜群だった(写真:X-1)

鳥海と初めて話をしたのは、同年の秋だったと記憶している。その年から日本代表候補の合宿に招集されるようになっていた彼に話しかけると、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべながら「自分は全然だなって思います……」と言って、当時兄のように慕っていた豊島英に助けを求めるようにしていたしぐさが懐かしく思い出される。

その年、鳥海を取り巻く環境は一変していた。中学1年生から車いすバスケットボールを始めた鳥海は、中学2年生で当時所属していた佐世保WBCに正式登録。その2年後の14年に日本選手権に初出場を果たした。

その頃の彼のプレーは主にディフェンスで、得点に絡むことは皆無に等しかった。プレースタイルからすれば、本来は決して目立つ存在ではなかったはずだった。しかし、当時から彼のパフォーマンスには見る者を引きつける魅力があった。チェアスキルには粗さが目立っていたものの、それでもスピードとアジリティにおいてはすでにレベルが高く、はかり知れないポテンシャルの高さを持つ選手であることは、誰の目から見ても明らかだった。

そんな彼のプレーに注目していた一人が、当時男子日本代表の指揮官を務めていた及川晋平ヘッドコーチ(HC)だった。すでに鳥海の存在を知っていたという及川HCは、「彼はいい選手だよね。これからが本当に楽しみだよ」と語り、目を細めていたのだ。その“これから”が訪れたのは、予想以上に早かった。

日本選手権から約2カ月後、鳥海はU25日本選手権でMVPを獲得。すると関係者の間では、日本代表候補の合宿に招集してはどうか、という話があがり始めていたという。そして決め手となったのが、その約1カ月後にあった「のじぎく杯」でのプレーだった。鳥海擁する長崎県選抜は、決勝に進出。そこで対戦したのが、及川HC率いるNO EXCUSEだった。結果は44-58で長崎県選抜が敗れたが、この時の鳥海のプレーが及川HCの決意を固めた。

「長崎県選抜は、ずっとプレスをかけてきたのですが、なかでも鳥海のボールへのプレッシャーは抜群だったんです。改めていいプレーをする選手だなと。将来の可能性を考えてということではなく、即戦力として今すぐ日本代表に欲しいと思いました」

当時の男子日本代表はベテラン勢が多くを占め、最年少が20代後半。今のように世代交代が盛んに行われてはいなかった。そんな中、わずか15歳、まだ男子U23世界選手権の経験もなかった高校1年生の鳥海の存在は、まさにすい星のごとく現れた新星だった。だが、10歳以上も上の先輩たちのなかでも鳥海が臆することはなかった。

「はじめはレベルが違い過ぎて『なんでこんなにも自分はできないんだ』と思いました。ただ僕は負けず嫌いなので、そこで諦めるとかはぜんぜんありませんでした。今の目標は日本代表のスタメンに入ること。クラス2.0(当時)だからといって味方を生かすプレーだけでは自分の持ち味が死んでしまう。ほかのクラス2.0とは違う、自分にしかない部分を出してアピールしていきたいと思っています」