国会の爆弾発言男

石井さんは、1993年の第40回衆議院議員総選挙で、当時ブームを起こしていた日本新党から立候補して、トップ当選。

当時は政権交代、政界再編でめまぐるしい時期でしたから、石井さんもその後、自由連合、新党さきがけ、民主党と、所属を替えていきますが、不正を許さず、国民のほうを向いた政治姿勢は、生涯変わりませんでした。

故・石井紘基氏を師と仰ぐ泉房穂さん 撮影/内藤サトル
故・石井紘基氏を師と仰ぐ泉房穂さん 撮影/内藤サトル
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国会議員2年目の1994年、石井さんは羽田孜連立内閣において、総務政務次官に就任。特殊法人の住宅・都市整備公団(現・独立行政法人都市再生機構)による、子会社への工事発注操作の疑惑を追及し、メディアでも取り上げられます。

この国会質問を受けて総務庁(現・総務省)は、同公団への行政監察を行ないました。それまで、公共事業の主体として、当たり前のように存在していた特殊法人に、石井さんは初めてメスを入れました。

翌1995年は、阪神・淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた年でした。石井さんは、カルト宗教問題に取り組んでいる紀藤正樹弁護士と連絡をとり、「オウム真理教問題を考える国会議員の会」を発足。統一教会の世田谷進出に反対する住民運動にも参加します。

(画像1) 1997年6月26日「地下鉄・松本サリン事件の被害者救済の集い」での石井紘基氏 写真提供:石井ターニャ氏
(画像1) 1997年6月26日「地下鉄・松本サリン事件の被害者救済の集い」での石井紘基氏 写真提供:石井ターニャ氏

1996年、衆議院議員に2回目の当選。1997年、オウム真理教の「地下鉄・松本サリン事件の被害者救済の集い」を開催。そしてこの年、統一教会が世田谷進出を断念して、施設から撤退します。政治家と市民がともに戦い、勝ち得た勝利でした。

1998年には、防衛庁の装備品調達における贈収賄、背任疑惑を国会で追及。共謀して工数の水増し請求を行なった取引先4社と、調達費の過払いに関与した防衛庁の関係者は、のちに東京地検により逮捕・起訴されます。

翌1999年には、衆議院行政改革特別委員会で中央省庁等改革関連法案と地方分権1括法案に対する質疑を行ない、日本道路公団(現・特殊会社NEXCO3社)および、住宅・都市整備公団の不透明な業務内容を例に、特殊法人の問題点を追及。

「特殊法人は1200社以上ある。丸投げするための子会社まで含めたらもっと多い。公益法人にしても職員51万に対し役員49万人。これらが民間と同じビジネスを行なっている。ここにメスを入れなければ、行革の意味がない!」と官業による民業の圧迫、特殊法人と子会社の癒着、そこで起きている官僚の天下りを痛烈に批判しました。

独自の調査で権力の中枢に踏みこみ、国民が知らなかった事実を暴露する石井さんは、「国会の爆弾発言男」と呼ばれるようになります。