イメージを一掃、3年前には修学旅行生も
だが、バブル崩壊とともに「売春島」は衰退の一途をたどる。置屋に在籍する娼婦も、賃金が安いという理由で徐々にフィリピン人やタイ人に変わっていったが、そのころから茶呑さんのなかでは「いつまでもここが売春島でええわけないやん」との思いが芽生えたという。
「平成に入ってから明らかに右肩下がり感はあったし、同じ県内でも『あそこは三重県の恥部や』とバカにされてたからな。
そのころから警察の手入れ(摘発)も相次いでいたし、『いつまでもこんな商売が続くわけない』という焦りもあったんやけど、旅館業の人のなかには『女がいなかったら渡鹿野には金なんて入ってこんぞ』という考えもあって、島民同士でも『(置屋商売は)イヤだよね』とは言えなかったの。せやけど、渡鹿野で生まれた子どもたちが、島外にある学校で『周りに白い目で見られるから、渡鹿野とはよう言わん』と話していると知ったときは、これはアカンと思ったんや」
こうした葛藤の末、渡鹿野島はクリーン化に舵を切ることになる。2003年には島内に人工の海水浴場「わたかのパールビーチ」を設置。
そして渡鹿野島の旅館組合と観光協会は、2013年に鳥羽署と協力して「渡鹿野島安全・安心街づくり宣言」を採択。景観の妨げになるとして置屋の客引きも禁止し、売春のイメージから観光へとシフトしていった。
「それで10年前には、三重県の『南西地区活性化推進室』というのができてな。そこのモデル地区に渡鹿野島が選ばれて、四日市大学の学生たちに半年ほど島を見てもらっていろいろと提案してもらった。
それで島のホームページを作ったり、Facebookをつかって明るい情報を発信するようにしたし、そのほかにも『わたるくん』と『かのんちゃん』というゆるキャラを作ったり、パールビーチで音楽祭を開こうとしたこともある。そうした努力が実を結んだのか、3年前には初めて修学旅行生がきてくれた。このときは『やっと教育界も認めてくれたのかな』と嬉しくなったな」