「不倫は死罪」という時代
しかし、かつての不倫に関する法律はこのような軽いものではなく、今の我々の想像をはるかに超える厳しいものであった。米国が独立する前から、キリスト教の一派であるピューリタンは、支配的宗教として社会の思想的及び社会的基礎を成し、あらゆるところで大きな役割を果たしていた。
ピューリタンは性に関して極めて厳しく、特に姦通行為を宗教上でも世俗上でも重大な犯罪として、それに対する厳罰を説いていた。植民地時代からの米国法は、この影響を強く受けており、いずれも姦通を重大な犯罪として定め、死刑を適用するだけでなく、姦通を行った人を侮辱するための多くの法的措置をも用意していた。
『緋文字』という有名な小説があるが、そこに書かれているのは、まさに17世紀のボストンで夫の長期不在中に牧師と姦通した女性に対する侮辱的処遇である*4。
現代の中国では、姦通しても刑事法上は何の問題にもならないが、40年前の中国ならば、事情は全く異なっていた。当時、姦通が露見した者は、まず外国で言う刑罰に相当するような厳しい政治処分と行政処分を科せられた。
例えば、情状の重い姦通者に対しては、不良行為罪(中国語では「流娠罪」)として厳しい刑罰が言い渡された。姦通者の相手が軍人の配偶者であれば、軍人婚姻破壊罪として更に重い刑罰を科せられた。特に、党と国家の政策に関連して姦通行為が行われ、悪い影響を引き起こした場合、死刑もあり得た。
かつて、次のような事例があった。毛沢東が都会の知識青年(都市の中学校・高校卒業生)を農村に行かせるために知識青年上山下郷(いわゆる「下放」)政策を打ち出した。
それを受けて、ある大都会の若い女性が下放されてきた。受け入れ先の村の党書記はその女性と不倫関係を結んだが発覚して、知識青年上山下郷政策を破壊したとして、死刑に処せられた。
また中国では、毛沢東の死後5年目にあたる1980年1月1日、中華人民共和国の初めての刑法典がようやく公布、実施された。
この法典の起草と制定の過程において、姦通罪または他人婚姻家庭破壊罪を設けるべきであるという主張が多く出され、その是非について議論が長く展開されたが、最終的に軍人婚姻破壊罪は設けられたものの、姦通罪または他人婚姻家庭破壊罪そのものは刑法典のなかには取り入れられなかった*5。
このように、同じ姦通でも、時代により、犯罪とされて厳しい刑罰を科すときと、それが刑事法上違法でないばかりか、ブームにすらなるという大きな違いがあるのである。