蓮池薫さん証言「我々をスパイにしようと…」
1980年5月、朝鮮労働党対外情報調査部(現・朝鮮人民軍偵察総局)の拉致担当部署の「課長」が薫さんを訪ねてきた。対外情報調査部は韓国をはじめ海外での情報収集やスパイ活動、テロなどの工作活動を担い、拉致被害者が住む招待所も運営していた。
課長は「一緒に来た女性と結婚しないか」と持ちかけてきた。祐木子さんのことだ。薫さんと祐木子さんは龍城招待所内にある「5号特閣」と呼ばれる、招待所よりも規模が大きく施設もホテル並みの施設で結婚式を挙げ、新婚生活に入った。
祐木子さんは薫さんと再会し、結婚するまでの間、やはり薫さんと似たような生活を送っていた。
工作船で清津に到着すると、港の見える丘の上の招待所に連れて行かれた。そこで数日間滞在した後、同じ清津市内の豪華なホテル並みの招待所に移された。拉致されてから1カ月も立たないうちに、薫さんと同じ平壌郊外の「順安招待所」に移され、数カ月過ごした後に今度は平壌中心部の招待所に送られた。そこで指導員に引き合わされたのが増元るみ子さんだった。祐木子さんと増元さんは共同生活をしながら、朝鮮語の勉強を始めた。
その後、1979年2月ごろに2人とも平壌市中心部に近い「レンチョン招待所」に、夏には再び「順安招待所」に移り、就寝時間以外は勉強や食事も一緒にしたという。だが、2人の共同生活が長く続くことはなかった。10月下旬に引き離され、祐木子さんは平壌市郊外の「東北里(トンブクリ)招待所」で半年以上生活した後、1980年5月に龍城招待所に移り薫さんと結婚した。
北朝鮮当局はなぜ、拉致直後に薫さんと祐木子さんを引き離して別々の施設に収容したのだろうか。薫さんは結婚するまでの期間を振り返り、日本政府に対してこう証言している。
「北朝鮮は当初、我々を工作員として使おうとしていたのだろう。実際にそういう雰囲気はあったし、指導員からは『日本に行って東大生と仲良くなれ』と言われていた。自分は北朝鮮に行った当初は反抗的であり、『東大生は自分など相手にしない』と反発したり、日記に指導員の気に入らない言動を書いたりしていたので、工作員としては使えないと判断したのではないか。当初、自分たちを別々にしたのも、それぞれに朝鮮人の工作員をパートナー兼監視役としてつけて、スパイにしようとの意図があったと思う」
文/鈴木拓也
構成/集英社オンライン編集部ニュース班
写真/朝日新聞社、(モノクロ写真)書籍より出典