日本国内の報道で断念「潜入工作員」養成計画
日本ではこの当時、北朝鮮が日本人を拉致したという事実を直接伝える報道はなかった。久米さんの動向を伝える記事も、工作員にそそのかされて自らの意思で北朝鮮に渡ったのではないかとの印象を与えるものだった。
だが、地村さんが日本政府に証言した内容からは、北朝鮮が当時、日本で相次ぐアベック失踪事件や久米さんに関する報道を重視していたことがうかがえる。拉致した日本人被害者を洗脳し、工作員に育て上げて日本や韓国に潜入させるという計画はあまりに無謀だということにようやく気付いたのではないかと推察される。
蓮池薫さんたちも、日本政府に同じような証言をしている。
薫さんと祐木子さんは1978年7月31日に新潟県柏崎市の中央海岸で拉致され、北朝鮮の工作船により一晩かけて清津に連れて行かれた。清津には、日本に工作員を送り込むための工作船を運用する朝鮮労働党作戦部(現・朝鮮人民軍偵察総局)の連絡所が置かれていた。清津に着いてからはそれぞれ別の招待所に送られた。薫さんは襲われた際に顔を殴られており、目のあたりが腫れ上がっていた。清津の招待所ではまず、その治療が行われ、正面と横からの証明写真も撮られたという。
薫さんは8月上旬に、平壌郊外にある平壌国際空港近くの「順安招待所」に移された。そこでは、金日成氏の生家訪問や映画鑑賞など北朝鮮という国家を理解するための「現実体験」や朝鮮語の勉強が始まった。
急性肝炎にかかり、「915病院」という工作員の専用病院に2カ月ほど入院し、11月に再び順安招待所に戻された。この時に地村保志さんと出会い、1年間にわたって現実体験や朝鮮語の勉強をしながら共同生活を送った。朝鮮語は先生から教わるわけでもなく、金日成総合大学の留学生用のテキストを使って独学で覚えていったという。
1979年11月に保志さんと別れ、平壌市内の「龍城(リョンソン)招待所」に移された。ここでは半年近く過ごし、日本語が上手で中国語も少し話すことができる工作員と身ぶり手ぶりを交えながら意思疎通を図った。一緒に食事をしたり、映画館に行ったりしたこともあったという。この工作員は「ハン」という名前で、ベトナム戦争では従軍記者をやっていたという。薫さんは日本政府にこう証言している。
「北朝鮮の工作員は2つも3つも名前を持っているので、どれが本当の名前なのかはわからない。公民として登録されている名前もよく変わるから、なおさら訳がわからない」